とある田舎のとある山中。
薄く雪の積もった山道を、さくさくと音を立てながら二人の少女が歩いている。
片方は髪の長い、いくら寒い冬とは言え関節が曲がるのか心配してしまうほどの厚着をした少女。
時折ずり下がってくる眼鏡を押し上げながら、ふうふうと息を吐きながら一所懸命に歩いていた。
もうかなりの距離を歩いているらしく、俯きながら引きずるように足を運んでいる。
「委員長っ。もうちょっとだっ、頑張れっ」
委員長と呼ばれた眼鏡をかけた少女は、呼びかけの反応して顔を上げる。
視線の先には、委員長とは対照的に跳ねるように前を歩く少女の姿が。
服装も委員長とは正反対に、ミニスカートなど穿いていて活発な格好だ。
一応パンストも身に着けてはいるが、結構な薄着には違いない。
山を歩いているというのに元気なものである。
「この早坂小雪っ。うずうずしてきちゃったよっ。先行っちゃうよっ?」
自分のことを早坂小雪と呼ぶ少女はその場で落ち着き無く足踏みをしている。
相当元気が有り余っている様子だ。
委員長は困ったように息を吐く。
「落ち着きなよ、小雪ちゃん。温泉は逃げないよ」
「それはそうなんだけどねっ。ああっ、秘境の温泉宿かぁっ。楽しみだなっ」
いちいち力の篭ったしゃべり方をする早坂小雪はまだ足踏みを続けている。
二人は共に文芸部に属する仲間同士で、穴場の温泉があると聞き土日を利用してやってきたのだった。
高校の冬休みが終わったばかりで今ひとつ連休気分が抜けないので、最後の一遊び、というわけだ。
本当なら他の文芸部員も誘うところなのだが。
「みんな冬休みの宿題やってないから……。不真面目なんだから、もう」
真面目な彼女は怒ったような、疲れたような吐息を漏らす。
彼女は別に何かの委員長というわけでは無いが、見た目と性格がそれらしいので皆にそう呼ばれている。
「まったくだねっ。よろしくないことだよっ、これはっ」
早坂小雪も腰に手を当てて憤慨したようなポーズをとる。
彼女も彼女で、委員長ほど真面目でもないが風紀委員に所属しているだけあってそれなりに優等生だ。
「よろしくないと言えば……」
やっと早坂小雪のいる場所まで歩いてきた委員長はぽつりと呟く。
「彼、学校来ないわね。もう新学期始まってるのに」
早坂小雪は急に不機嫌そうになって顔をしかめた。
「アイツっ? まったくダメなコだよねっ。風紀を乱してるなっ」
ダメなコ呼ばわりされた例の彼とは、委員長とは同じクラスの男子のことである。
現在二年生な二人だが、一年の時は早坂小雪とクラスメートだったので、二人の共通の友人だ。
委員長と早坂小雪を通じて文芸部とも関わりがあり、部の集まりにも良く誘われている。
入部するつもりはないようだが、もともと創作活動よりも、集まって遊ぶことに重きを置く部。
たまに遊びに来るだけの彼に不満を抱いている部員は誰もいなかった。
「少し心配だわ。何かあったのかしら」
自分の言葉に自分で暗くなる委員長は良い子。
「この風紀委員の早坂小雪の知ったことじゃないねっ」
意味もなく強がる早坂小雪は素直じゃない子だった。
そんな二人がそのまましばらく歩いていると、ようやく目的地である温泉宿に到着した。
秘境と呼ばれているだけあって、実に閑静な佇まいだ。
率直な物言いをすれば些かボロい。
身内だけ経営している小さな宿なので、料理などのサービスは早坂小雪も委員長も別に期待していない。
今回の目的は温泉なのだ。
恰幅の良い女将に迎えられた二人は、部屋に案内されるとひとまず荷物を置いて一息ついた。
特に委員長は一息つくどころか、足を投げ出してぐったりとしている。
ここまでの道のりで相当疲れたようだ。
「まさに秘境っ」
そんな委員長を尻目に早坂小雪はまだまだ元気だ。
部屋の窓を開け放ち、外の景色を堪能していた。
見渡す限りの大自然、うっすら積もった雪化粧。
天気がいいので、日光を雪が反射して山全体がきらきらと輝いているようだった。
木々の香りが混じった冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
「感じるっ。マイナスイオンをびんびん感じるねっ」
早坂小雪はご満悦な様子。
「寒い……閉めて……」
委員長はまだ景色を楽しむ余裕はないようだ。
部屋に備え付けてあったポットでお茶を入れて暖を取っている。
何だかお年寄りのような雰囲気を醸し出していた。
テンションの低い委員長に早坂小雪は少し気になったようだ。
「いくらなんでも疲れすぎじゃないかなっ? この早坂小雪と委員長にそんなに体力の差はなかったはずっ」
そもそも二人とも、文科系の極みとも言える文学部。
早坂小雪の方が風紀委員の仕事で毎朝校門に立っている分、健康的な生活をしているが、慢性的な運動不足という点では同じはずだった。
そんな早坂小雪の質問に、委員長は力なく笑う。
「私ってイベント前になると寝られないタイプだから。昨日もなかなか眠れなくて」
「甘いねっ。この早坂小雪っ、昨日なんか八時に寝たねっ」
「元気なはずよ」
「まぁともかくっ」
早坂小雪は窓を勢いよく閉めて、拳を突き上げる。
「そんな疲れてるんならまずは温泉だねっ」
「それには賛成。もうこの宿にいる間は何回も入らないと損だしね」
話がまとまると、二人はタオルや着替えの準備をして、温泉に向かって歩いていった。
かっぽーん。
「ああ……。いい湯だったわぁ」
「だからって二時間も浸かるかな普通っ。委員長は変なトコでタフだなっ」
委員長は肌を桃色に染めて、心から満足、といった表情を浮かべていた。
山登りの疲れもすっかりとれたようで幸せそうにフルーツ牛乳を飲んでいる。
しかし一方で、今度は早坂小雪が弱っていた。
顔がゆでダコのように真っ赤になっている上に、足元もおぼつかない。
「無理して付き合ってくれなくてもよかったのに」
「だって一人で先に出たってヒマなんだもんっ」
一人でいれない性質の早坂小雪は唇を尖らす。
委員長はそんな早坂小雪を適当に笑顔で流すと、自販機でもう一つフルーツ牛乳を買った。
風呂あがりの一杯は、一杯では済まさないのが委員長だ。
早坂小雪もそれに倣ってコーヒー牛乳を買う。
その後は特にやることもない。
二人は牛乳を片手に宿の中を色々と探索してみることにした。
何しろ秘境。とにかく秘境。
宿の外に出ても山の中だし、外を散歩するには寒すぎる。
宿の中をぶらつくくらいしかやることがなかった。
大人ならば、この何も無い、ということ自体を楽しめるのだが、二人はまだまだ若い。
文芸部らしく、小説のネタになるかも、と話しながら浴衣姿で歩き回る。
すると脱衣所から少し歩いた所に、地下に続く階段があった。
立て看板があり、『娯楽室』と書かれている。
「秘境にもこんなものがあるのねぇ」
言いながら委員長は秘境に娯楽室はちょっと無粋なんじゃないかと思った。
だが、暇を持て余して宿内を歩こうとしていた自分達のことを思い、すぐに考え直した。
きっと自分たちのような若者が泊まった時のためのものなのだろう。
階段の造りから見ても、恐らくここは元々ただの物置部屋か何かかだったんじゃなかろうか。
そんなことをつらつらと考える委員長。
「ちょうどいいじゃないかっ。遊んでいこうよっ」
何も考えていない早坂小雪は委員長の浴衣の袖を引っ張って、階段を下りていくのであった。
そこは薄暗い上に、あまり広くもない部屋だった。
その上、娯楽室と言っても卓球台とビリヤード台が一台ずつ置いてあるだけ。
「まさに秘境っ。ある意味秘境っ」
しかし何故か早坂小雪は嬉しそうだ。
「まぁこんなものよね……」
委員長も予想していただけに別に不満は感じない。
それより気になるのは、この部屋にすでに先客がいたということだ。
部屋の隅で、一人の少女が一心不乱に卓球のラケットで素振りをしていた。
浴衣が乱れることも気にならないらしく、真剣な眼差しでラケットを振る。振る。
外見は見たところ、委員長たちより少し幼い。中学生くらいであろうか。
地元の卓球部員かしらん、と思いながら委員長が眺めていると、その視線に気付いたのか少女ははたと素振りを止めた。
乱れた浴衣を簡単に直すと、二人に笑顔を向けてきた。
「こんばんは」
会釈もしてくる。
なかなか礼儀正しいお嬢さんだった。
「こ、こんばんは」
「こんばんはっ」
釣られるように会釈し返す委員長と早坂小雪。
少女は笑顔を浮かべたまま、愛想よく話し掛けてきた。
「お姉さんたちってお二人だけでいらしたんですよね? ここって結構いい年したお客さんが多いから何だか珍しいなぁ」
「結構旅行とか好きなもんでねっ。キミはお客じゃないみたいだけど、ここで何してたのかなっ?」
早坂小雪は元気よく少女の言葉に相槌を打ち、ついでに質問をする。
「見ての通り、卓球の特訓ですよ」
言いながら勢いよくラケットを振ってみせる少女。
お世辞にも大して綺麗なフォームとは言いがたい。
だが、卓球の知識も運動センスもない委員長と早坂小雪は別に気にならない。
「じゃあ卓球部なのね。試合が近いのかしら?」
体育会系ってえらいなぁ、と思いながらの委員長の言葉。
しかし少女に笑いながら否定されてしまった。
「違いますよー。これは決闘に備えての特訓なのですよ」
「決闘?」
「決闘っ?」
「はい、決闘」
決闘決闘と連呼する3人娘。
少女は今の言葉で伝わるわけがないと思ったのか、すぐに続けて説明した。
「私には従兄がいるんですけどね。その従兄と、あるモノを賭けて最近いろいろと勝負してるんですよ」
それが決闘、と少女は言う。
「前々回の料理対決は勝てたんですけど、それ以外の勝負は結構負け続きで。今回の卓球勝負はもらいたいですね」
変な関係なのね、と委員長は思ったが口には出さないでおく。
早坂小雪は決闘という言葉に反応したようで、詳しく話を少女から訊いていた。
従兄は本当はもっと遠い所に住んでいるのだけど、今は休みを利用して長いこと少女の家に泊まっている。
なので、普段出来ない決闘をまとめてやっているところだという。
従兄はあまり乗り気じゃないらしいが、少女的には構ってもらえれば、決闘に負けてもそれはそれで楽しいらしい。
「従兄さんとずいぶん仲がいいのね」
兄弟も姉妹もいない委員長は少し羨ましく思った。
「そりゃあもう仲はいいですよぉ」
委員長の言葉に照れることもなく、少女は満面の笑みで答えた。
「素直でいいねっ」
感心感心と満足げに頷く早坂小雪。
委員長も同じ意見だったが、ふと疑問が浮かんだので目の前の少女に尋ねてみる。
「従兄さん、休みを利用して来てるって言ってたけど、まだ学校始まってないの?」
ずいぶんと長い休みなのね、と続ける委員長。
「大学生か何かじゃないのかなっ。それか社会人とかっ」
「いや高校生ですけど? それにまだ学校始まってないって……」
言葉の途中で言いよどむ少女。
顎に人差し指を押し当てて、少し考え込む。
「……あれ? 今日って何日でしたっけ……」
額に汗を浮かばせながら、少女は二人に問い掛ける。
少し顔色が悪くなっていた。
「もう二十日も過ぎて、一月もそろそろ終わりだねっ」
快く質問に答える早坂小雪。
その答えに少女は一瞬固まると、次の瞬間頭を抑えてしゃがみ込んだ。
「しまったぁぁ。もう学校始まってるよぅ……」
とんだうっかり者であった。
それを見下ろす委員長と早坂小雪は呆れの混じった同情の視線を送る。
いくらなんでうっかりしすぎじゃないか、と思う委員長だ。
「まぁ気付けてよかったじゃないかっ。うっかりしたまま春休みに突入しなくてっ」
「いやー。本当にそうなりそうな勢いでしたよ。ありがとうございます」
早坂小雪の適当な慰めの言葉に、深々と頭を下げる少女。
口の中でミっちゃんにも早く教えてあげなきゃ、などと呟いている。
この娘の従兄も相当なうっかり者よねぇ、と委員長は思うが口には出さない。
委員長はあくまで思うだけで口には出さないのだ。
「まっ。次の月曜からちゃんと学校に行くことだねっ、お嬢ちゃんっ」
「そうします……。はぁ、せっかく真面目に宿題やったのにコレじゃ意味ないよ……」
気を落とす少女を呵呵と笑い飛ばす早坂小雪。
無意味に元気な彼女だったが、ふと自分の肩を抱いて身を震わす。
「うーっ。こんなトコで何もしないで立ってたから冷えちゃったよっ」
「そうね」
委員長も同感だ。
この娯楽室、小さな石油ストーブが部屋の隅に置いてあるだけで、じっとしているとなかなか冷える。
肩を擦りながら委員長は提案する。
「せっかくだからもう一回、温泉に入ろうか、小雪ちゃん」
「いいねっ。いこうかっ。あっ、お嬢ちゃんも良かったら一緒にお風呂しない?」
「いいですね」
屈託のない笑顔で誘ってくる早坂小雪に、少女は素直に頷く。
「でも、私ってここのお手伝いに来てるんですよね。だから先に行っててくれません?」
とりあえずこの娯楽室の掃除だけでもしなくちゃ、と周りを見渡す少女。
「わかったわ。じゃあ先に行ってるわね」
というわけで委員長と早坂小雪は、娯楽室を後にした。
二人の胸の内は、旅先での出会いは楽しいなぁ、といった感じだった。
早坂小雪は目の前の光景を、呆然と口と目を開きっぱなしにして眺めていた。
委員長は目の前の光景を、瞳を輝かせながら眺めていた。
もう一度、湯を楽しもうと思った二人。
脱衣所で手早く浴衣を脱ぎ、頭にタオルを乗せただけの気軽な格好で露天風呂に飛び出た。
そこまではよかった。
しかし、そこに広がっていた光景が異常だったのだ。
露天風呂のそこかしこで、デッキブラシが風呂場全体を丹念に磨いている。
デッキブラシで、ではない。デッキブラシが、である。
デッキブラシが誰も触っていないのに動き回り、磨き回っているのだ。
それだけではない。
そのブラシに付き従うように固形石鹸が飛び回り、ときおり泡を床に落としていく。
岩場の隅など、細かい所は小さなタワシが丁寧に磨いている。
ホースが蛇のようにうねり、水を撒いて泡を流す。
そして極め付けが湧き出る温泉である。
湧き出た端から空に昇っていき、露天風呂の上空で巨大な湯の塊として浮かんでいるのだ。
たゆたう塊は、もうもうと湯気を発しながら虚空に留まっている。
湯が浮かんでいてくれているおかげで、ブラシたちは風呂場全体を綺麗に磨けているようだ。
しかしこれは尋常な光景ではない。
こんな情景を見せられた早坂小雪は愕然とするしかなかった。
こんな情景を目にすることができた委員長は、子供のような瞳をしている。
「これはっ……いったいっ……」
「すごい……! ファンタジー、ファンタジーだわ!」
呆けている早坂小雪を残して、委員長はタオルを振り回しながら近くのデッキブラシに飛びついた。
ふらり、と軽く避けられる。
勢い余って地面に顔を打ち付ける委員長。
まったく意に介さず掃除を続けるデッキブラシ。
「い、委員長っ。大丈夫っ?」
慌てて駆け寄る早坂小雪だが、委員長はすぐ身体を起こす。
「ふふふ。たまらない。たまらないわぁ」
恍惚とした表情をしていた。
「委員長っ。色んな意味で大丈夫かなっ?」
「取材しなくちゃ、取材! この怪現象の原因を突き止めなくちゃ」
本気で心配する早坂小雪を取り残して、委員長はハツラツと風呂場を歩き回る。
「確かに興味深いけどさっ。喜ぶ前に驚くべきだと思うんだけどなっ」
ぶつぶつと言いながらも早坂小雪は委員長についていく。
大して広くはない温泉なので、調べるところなどあまりない。
少し歩くと、温泉の中でも特に大きな岩の上に人影が見えた。
年恰好は湯気のせいでよく見えないが、俯いて静かに座禅を組んでいるようだった。
それを見つけた委員長は発狂せんばかりに喜んだ。
「魔法使いって言うか道士さまって感じかしら!?」
言いながらその人影に向かって突っ走っていく。
焦ったのは早坂小雪だ。
「ちょっとは警戒しようよっ。ていうか素っ裸で突進するのはどうかとっ」
慌てて追いかける。
二人の騒ぎは嫌でも耳に入る。
俯いていた人影は、極々小さな声で呟いた。
「ヒメちゃんめ。掃除中の看板を出すの忘れたな?」
人影は俯いたまま、両手を高く掲げた。
「散ッ」
鋭く叫ぶ。
すると、上空を漂っていた湯の塊が、爆発するかのような勢いで一瞬にして湯煙へと変わった。
「きゃ!?」
「わわっ!」
悲鳴をあげる二人。
視界が真っ白に染まり、自分の指先さえ見ることが出来ない状況になってしまった。
その上。
「あつっ! なんか凄く熱いんだけどっ!」
胸を抑えて悶える早坂小雪。
無理も無い。
大量の湯がいきなり全て湯煙に変わったのだ。
周りはかなりの高温のサウナのような状態になっている。
息をすれば肺が焼けそうだ。
これはたまらない。
早坂小雪は、姿の見えない委員長を必死に呼んだ。
「ダメだ委員長っ。逃げようっ。ここは危ないよっ!」
しかし返ってきたのは湯煙よりも熱い言葉だった。
「負ける……もんですかぁぁ!!」
委員長は叫びながら、先ほどまで人影がいた場所に向かって突進した。
「負けてくれよ。……ていうか何か聞き覚えのある声だなぁ」
どこからともなく男の声が聞こえてくる。
呆れたような声だったが、続いて発せられた声は鋭かった。
「打ッ」
軽快な音が風呂場に響き渡る。
委員長は、自分の後頭部に何かが直撃したのを痛みと共に感じた。
手桶が彼女の後ろ頭に向かって正確に飛び込んだのだった。
会心の一撃。
薄れゆく意識の中、人影の顔を見れなかったことを委員長は死ぬほど悔やんでいた。
委員長は気が付くと浴衣を着せられ、布団に寝かされていた。
ぼんやりとする頭で、しばし古ぼけた天井を眺める。
やがて意識がはっきりしてきたのか、委員長は掛け布団を跳ね上げ、跳び起きた。
「……道士さま!?」
周りを見渡すと、そこは自分の部屋だった。
隣にも布団が敷かれていて、早坂小雪が寝ている。
何だかうなされいる。
「デッキブラシが……石鹸が……手桶が襲ってくるっ……」
相当な悪夢を見ている様子だ。
委員長は枕もとに置かれてあった眼鏡をかけると、立ち上がる。
何で。何時の間に部屋に?
疑問に思いながらも、とりあえず用を足そうと部屋を出る。
出てすぐに女将と顔を会わせた。
「お客様。お身体のほうは大丈夫でしょうか? 昨晩、お二人とも露天でのぼせて倒れていらしたので……」
「……え?」
心配そうな女将の言葉に委員長は首を傾げる。
そうだっただろうか。どうも昨夜の記憶が曖昧になっている。
せっかくなので、目の前の女将に質問してみた。
「そういえばお手伝いに来てるっていう女の子、まだいます?」
「あの子なら昨夜のうちに帰りましたよ」
あっさりと答えられる。
「……ここって若い男の人って働いてます? 10台後半くらいで……」
「それほど若い従業員は、うちにはおりませんが……?」
女将に怪訝な表情を浮かべられてしまう。
「お手伝いに来たりは?」
「昨夜の女の子の従兄がたまに手伝ってくれることがありますが、昨日は来ていませんね」
「……そうですか。変な質問してすいません」
お気になさらずに、と深々と頭を下げて去っていく女将。
昨夜のことは夢だったのかしら。
脱衣所から先の記憶が途絶えているのでよくわからない。
早坂小雪にも訊いてみよう。
そう決めた委員長は部屋に取って返した。
「委員長っ。まずいよまずいよっ。早く駅に向かわないと今日中に帰れないよっ」
中では目を覚ましていた早坂小雪が、慌ただしく荷物を片付けていた。
「時計見て時計っ。もう昼過ぎだよっ。電車の時間がっ」
言われて時計を見た委員長は目を丸くする。
すぐにでも出発しないと確かに危ない。
「寝過ごしてたね……! 急がないと!」
「委員長の荷物もまとめてあるからっ! 早く着替えて着替えてっ」
「う、うん!」
「一泊二日したのに、その記憶がほとんどないのは何故っ!?」
「昨日の道士さまは夢だったのかしら……。確認したかったぁぁ」
山を駆け下りていく二人。
この宿が秘境と呼ばれる一番の原因は、駅までの送迎バスのようなものがないということだ。
あまり商売をする気がないのかもしれない。
移動手段が徒歩しかないので、ひたすら駈けていく。
「道士さま云々よりっ。結局あの宿で一食も食べてないよっ。何でだっ」
走りながら早坂小雪は空を仰ぎながら叫ぶ。
「……ああ! 帰り際に女将さんが謝られたのはそれかぁ」
「昨晩は湯中りのせいで食べられなかったしっ。今日は昼過ぎまで寝てたせいで時間なかったしっ」
「うっかりだわ。それに勿体無い……」
「お腹空いたよーっ!」
冬の冷えた空気を震わせて。
早坂小雪の嘆きは山に響いていくのであった。
一方その頃。
「ダメじゃないかヒメちゃん。危うく騒ぎになるところだった。せっかく女将のおばちゃんにも秘密で掃除してるのに」
「迂闊であった……。全部私がやったことにして貰ったお駄賃を山分けする作戦だったもんね。ごめんごめん」
「まぁ風呂場の連中と前もって合図決めておいてよかったよ。煙幕張って気絶させといたぜ」
「嫌疑がある。……お姉さんたちにイタズラなんかしてないよね?」
「イタズラどころかその場に放置してきたぞ。周りでモノが大量に動くと何故か疲れるんだよなぁ。相手してられんよ」
「それには同感だ。私も虫さんたちにお願い訊いてもらうとき、数が多すぎるとくたびれるもの」
「だろ? なんだろな、あの不思議な脱力感」
「いや、そのようなことよりツクモガタリよ」
「なんだ。ムシメヅルヒメ」
「……今日何日か知ってる?」
「何日って……ああ!?」