日の暮れた街中。
BOOKS鬼頭にて。
客のほとんどいない中、佐藤恵理と鬼頭彩がレジの中で雑談に花を咲かせていた。
話題は主に吉野豊――通称じぇんとるの悪口だ。
「で、ですね。ゆー兄はカッコイーとか、紳士的ーとか言われてますけど。ああ見えて結構冷たいトコがあるの」
うきうきした様子で話す彩に恵理は力強く頷く。
「わかるわかる。私もかなり冷たくされたことが……って詳しいことは言えないけど」
余計なことを言いかけた恵理は途中から声が小さくなる。
そんな恵理の発言に彩は目を丸くした。
「へぇ。昔ならともかく今のゆー兄が本人に気付かれるくらい冷たくするなんて珍しい」
「あ、あはは。まぁアレは私が悪かったから……」
頭をかく恵理に彩は無邪気に問いかける。
「アレ? アレって何やらかしちゃったんですか佐藤さん」
「えーと……」
言いよどむ恵理だが、彩は構わずに迫ってくる。
「何があったんですか? 気になりますよぅ」
ぐいぐい顔を近づけてくる彩に恵理の額から冷や汗が浮かび始める。
(この店で万引きしたところを捕まりました、なんて言えるわけないじゃない……)
脛に傷のある身としては純粋な彩の瞳が辛い恵理であった。
「……何やってるの?」
恵理と彩がせめぎ合っているところに、店の入り口から声をかけられた。
二人が顔を向けるとそこには制服姿の向井由美と、同じく制服のじぇんとること吉野豊が立っていた。
どうやら一緒に帰ってきたようだ。
ちなみに由美の家はこの近所にあるわけではない。
この店の少し先にあるバス亭からバスに乗って帰るのだ。
由美には少々遠回りになるのだが、彼女は無理矢理にでも豊と一緒に帰りたいらしい。
豊自身はそれに対してどう思っているのか表情と行動からは窺い知ることは出来ないが、一応バス亭までは送ってあげている。
この辺の行動が彼がじぇんとると呼ばれる所以だ。
一部の男子からはホストとも呼ばれてはいるが。
「そんな狭いレジの中で盛り上がっちゃって。何の話してたの?」
由美の言葉に、恵理と彩は顔を見合わせる。
まさか豊の悪口で盛り上がっていたとはちょっと言えない。
彩としては恵理が豊に好意を必要以上に持たないつもりで展開していた話題だったし。
恵理としても日頃の愚痴を漏らしていただけで、豊には悪意など持っていない。
二人は少々わざとらしい笑顔を豊に向けた。
「別に大したこと話してないよ? 天気の話とかそんなの! ね、佐藤さん」
「そうそうそう」
からからと笑う恵理と彩を一瞥すると豊は「そうかい」と、どうでもよさげに言葉を返した。
そしてそのままレジの前を抜けて歩いていく。
「お茶でも淹れてくるよ」
そう一言だけ残して店の奥へと消えてしまった。
何となく彼の入っていったドアを見つめる女三人。
最初に口を開いたのは由美だった。
「さっすが。じぇんとるは気が利くわよね」
まだこの店にいるつもりらしい由美は嬉しげに声を弾ませる。
「でももう少し愛想があってもいいと思うけど。まったく無口なんだから」
「じぇんとるはアレでいいのよアレで」
由美の言葉に恵理は苦笑する。
恵理から見ても由美は完全に恋する乙女な顔をしていたからだ。
ところで、彼女たちの接点はほとんどない。
由美は豊と同じ高校、同学年。
彩は同じ高校だが、学年は一つ下である。
恵理などは学年は豊と同じだが、違う高校に通っている。
全員に共通していることは豊と知り合いだということだけである。
普通に生活していれば会うこともなかったであろう三人。
だが、こうして何度か店で出くわすうちに仲良くなってしまっていた。
恵理と由美の様子を見て、彩は「やれやれ」と大げさに肩をすくめてみせた。
「何その外人みたいなリアクション」
「まったくお二人はゆー兄のことをわかってないんだから」
由美の言葉を彩は聞き流し、いやに強気に胸をそらす。
まるで自分は豊の全てを知っているとでも言いたそうな様子だ。
「むむむ」
由美はそんな彩の言動に眉をしかめた。
「いや別にそんな知りたいわけじゃ……」
恵理のほうは苦笑するのみだったが。
そんな二人に構わず、彩は一人でまだ話を続けている。
「私ってば幼馴染でございますから。ゆー兄のことならゆー兄のご両親よりもよく知ってるの」
やたらと得意気な彩に由美は負けじと言い返す。
「じゃああいつの良いところって何だってのよ。……あたしはあの紳士さから滲み出る優しさだと思うけど。恵理はどう思う?」
「え、私?」
突然話題を振られた恵理は困ったように頬をかく。
「うーん……人の気持ちを読むのが上手いところかしら?」
良くも悪くも、と恵理は心の中で付け足しておく。
恵理と由美の返事を彩は鼻で笑い飛ばした。
「ゆー兄の良いところはね。不器用な優しさなのよ」
「それ、あたしの言ってることと同じじゃない?」
彩の言葉に由美はとりあえず反論してみる。
「ゆー兄が紳士だなんて、あんなの猫被ってるだけ。本当のゆー兄はもっと愛想悪くて……喧嘩っ早いっ、不良っ、ヤンキー!」
拳を固めて力説する彩。
しかし恵理と由美の反応は薄い。
由美はそんな馬鹿な、とでも言いたげな顔をしていたし。
恵理は愛想は悪いけど不良は言いすぎでしょ、と考えていた。
予想よりに薄い反応に彩は口を尖らせる。
「いやいやホントにゆー兄は不良なのよ? 根っこは良い人だけど根っこ以外は悪い人なの……だったの」
言いながら口調が少しずつ弱くなる。
「……でもここしばらくは確かにジェントルメェンになっちゃったなー。今のゆー兄も格好いいけどさ」
なーんか不満、と腕を組む彩。
「何を一人で盛り上がって一人で落ち着いちゃってるのよ」
「あはは。まぁいいじゃないっすか」
由美の突っ込みに彩は頭を掻きながら笑う。
そんな二人のやりとりを見て、恵理はふと思いついたように尋ねた。
「その彩さんの大好きなゆー兄は昔はどんな感じだったのかしら? 今とはだいぶ雰囲気が違うらしいけれど」
「え?」
恵理の質問に彩は一瞬きょとんとした顔になると、顎に指を当てて少し考え込んだ。
「そうですねぇ……。ちょっと長くなるけど昔のエピソード聞きます?」
「あ、聞きたい聞きたい」
「聞かせて欲しいわね」
由美と恵理は彩の話に食いついて身を乗り出す。
ちなみに彼女たちが話をしている今も少ないとは言えお客は来ている。
レジ付近で彼女たちが盛り上がっていることはこの店では珍しい風景ではないので、お客も慣れているのだ。
特に気にする様子もなく恵理に買いたい本を差し出して購入していく。
恵理は会話をしながらも一応仕事をしているのだ。
そして周りの客のことなど気にしない彼女たちはさらに盛り上がりつつあった。
「じゃあ語っちゃいますね……」
彩が姿勢を正して口を開きかけたとき、店の奥の扉が開いた。
トレイの上に紅茶の入ったカップを人数分乗せて持ってきた豊だ。
お茶を淹れるだけで随分時間がかかっているかと思えば、制服から私服に着替えていた。
何となく会話が止まる三人娘。
そこに豊はトレイを持っていくと、レジの端に置きながら恵理に声をかけた。
「外出してくるから店頼むね」
「あ、うん。わかったわ」
続いて由美に。
「バスの時間もあるからあまり遅くならないように」
「大丈夫だってば。じぇんとるも心配性なんだから」
二人に話しかけるのを見ていた彩は豊に慌てて声をかける。
「ちょっとゆー兄。出かけるって晩御飯、今日もいらないのぉ?」
「外で済ましてくる」
「ちゃんと家で食べなきゃ駄目だよ?」
簡潔な返事に彩は唇を尖らせる。
「家に帰っても誰もいないし」
豊はそう言って肩をすくめながら店を出て行ってしまった。
「あたしの家って意味だったのに……」
その後姿を彩と由美は残念そうに見送る。
「ああー、行っちゃった」
「引き止めてみたら良かったのに」
そんな二人に恵理は意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「ええ……それで外出やめてくれたりしてくれるかな?」
「絶対無理」
彩は渋い顔をして断言すると、場を仕切りなおした。
ぱんぱんと手を叩きながら立ち上がる。
「さっ! ゆー兄も行っちゃったことだし。さっきの話を始めちゃいますよぉ」
「待ってましたっ」
由美も気を取り直して盛り上がり、恵理もぱちぱちと静かに拍手をした。
「と言っても大した話じゃないんですけど……。あれはあたしが小学四年生の頃……」
「あ、ゆー兄! 元気ぃ?」
ぶんぶん手を振る彩を豊はぶっきら棒な様子で一瞥すると、無言ですれ違った。
「ゆー兄が毎週買ってる……えと……ナントカって雑誌! 今週号出たからお店来てねー!」
それでも元気いっぱい声をかける彩に豊は振り向くことなく手だけ鷹揚に振りながら、振り返ることなく去っていった。
その反応に満足した彩は隣にいた友人に微笑んだ。
「じゃ、行こっか!」
「よくあの人に声かけられるね、彩ちゃん」
友人は少し怯えたような様子で去っていく豊にちらりと視線を向ける。
「何でぇ?」
きょとんとする彩。
「ゆー兄って無口だけどさ、たまに喋ったら面白い話してくれるし。パパが仕事してる時とか一緒に居てくれたりするし」
何でもないような口調で話す彩だが、友人の反応はあまり良くない。
「あの人と一緒にいても怖いだけじゃない? 知ってる?
あの人って上級生の男の子たちの間であんまり評判良くないんだよ?」
友人曰く、吉野豊は先生たちの前でにこにこしていて愛想も良いが、同じ小学生相手では笑顔一つ見せない。
話しかけても最低限の反応しか見せない。
グループ活動などにも非協力的である。
ということらしい。
「何で一こ上の学年のゆー兄のことそんなに詳しいの?」
「それも知らないの? ……ほら、顔はちょっと格好いいから」
そこで少し照れくさそうに笑う友人。
そういうことに疎い彩はふーんと鼻を鳴らすのみ。
あまり男の子が格好いいとか思ったことはないのだ。
「でも上級生の男の子たちの間で評判悪いってさ。その男の子たちも評判悪い人たちなんじゃないの?
ほら下級生からゲームとったり」
彩たちの通う小学生にはタチの悪い六年生グループがいる。
さらに柄の悪い中学生の兄を持つ彼らのリーダーは、それを脅しとして同級生、下級生相手にやりたい放題をしている。
うまく立ち回っているので先生や保護者たちも気付いていない。
この小学校は大人には知られざる暗黒時代に突入しているのだった。
彩の言葉に友人は声を潜める。
「うん、実はそうなの。彩ちゃんの言うゆー兄さんが持ってた雑誌をヨコセって絡まれたらしいんだけど」
「ふんふん」
「無視して相手しないんだって。もう完ッ全無視。空気くらいにも思ってないんじゃないかってくらいの無視っぷりだったとか」
「へぇ」
ふんふん聞いている彩に対して友人の声には熱が篭りつつある。
「で、グループの人たちもそれでかなり怒ってるらしいんだけど。ゆー兄さんって先生の評判凄い良いから手を出せないんだって」
なんかカッコイイよね! と友人は力強く言葉を切る。
彩は不思議そうに尋ねた。
「カッコイイと思ってるのに何でゆー兄のこと怖がってるの?」
「いやそれはそれ。あの人って何だか近寄り難いからさ。遠くからビクビク見てたいの」
「あはは。ゆー兄ってば動物園のトラみたいな扱いー」
二人で話しながら歩いているうちに目的地である兎の飼育小屋の前に着いた。
今は放課後。
彼女たちの肩書きは飼育係。
そして仕事は小屋の掃除だ。
「今日も兎さんたちのキチャナイお家をお掃除しますかー」
「兎さん可愛さに立候補したけど掃除は辛いの臭いのよー」
やる気がないのを通り越して少しハイになっている彩とその友人は近くの用具入れから箒などを取り出した。
手際よく先生から預かった鍵をポケットから取り出し、安っぽい南京錠に差し込もうとしたところで彩は小首を傾げた。
「あれ、壊れてるよ?」
「あらホント」
友人と一緒になって見てみると、無理矢理こじ開けられたようでひしゃげてしまっていた。
ペンチか何かの工具の跡らしきものも付いている。
友人は不安気に顔を歪ませた。
「いったい誰がこんな……」
「まぁとりあえず掃除しようよ」
彩は一向に構わず気楽に中に踏み込んだ。
しかし、小屋の中の様子がいつもと違った。
普段なら彩たちが掃除をしていてもまるで動じない神経の図太い兎たち。
その姿が一匹も見えないのだ。
「どこかに隠れたのかなー」
気になった彩は小屋の中を見て回る。
そう広くは無い小屋の中、兎たちはすぐに見つかった。
小屋の隅で固まって震えている。
彩が手を伸ばして撫でてみる気が起こらないほどに怯えていた。
「どうしたんだろ、このコたち……」
後から入ってきた友人が彩の後ろから兎を眺め、口元を覆った。
彩も押し黙ってしまっている。
見るに耐えないくらいの怯え方をしているからだ。
「先生に様子見てもらおうよ」
友人の言葉に頷く彩だが、兎たちを眺めているとあることに気が付いた。
「……一匹いなくなってない?」
「うそ! ……ひぃふぅみぃ……ホントだ、一匹いなくなってる」
「いったいどうして……」
立ち尽くす彩と友人。
しかし突っ立っているばかりでもいられないので、とりあえず先生を呼ぼうと二人で話し合う。
怯えた兎がさらにパニックを起こして逃げ出さないように友人に見張りを頼むと、彩は小屋から飛び出した。
先生に伝えたところで兎たちが正気に戻るとも思えないが、自分たちでは何も出来ないもの確か。
彩は大急ぎで校舎の中に戻っていった。
昇降口で急いで上靴に履き替えようとして、逆に慌てすぎてもたついていた彩。
そんな時に、大声かつ下品に騒ぐ男の子たちの声が耳が入ってきた。
彩も急いでいるので耳に入れる気も無かったのだが。
「しっかし昨日のゲームは盛り上がったな!」
「やっぱ的は動いてるのに限るよなー」
「しかも使った後はちゃんと埋めてやるなんてオレらマジ紳士」
「今日も一匹パクってこうぜ。まだまだ数は残ってるし」
「ウサギらぶー」
ちょっと彩には聞き逃せない内容だった。
下駄箱の向こうから聞こえた声に、その場から怒鳴りつける。
「ちょっとアンタたち! 今のってどういう意味!?」
返事を待たずに駆け出すと、彼らの前に立ちふさがった。
相手は五人。
例の六年生のグループだ。
突然現れた彩にきょとんとした視線を向けている。
「何だお前?」
「今の話ってどういうこと!? 兎がどうとかって!」
彩の言葉を聞いた一団は顔をしかめた。
そのうちの一人はうっとおしそうに頭をがしがしと掻く。
「あー……セン公にはチクんなよ? わかってんな?」
「何がよ! アンタたちが兎を殺したんでしょ!?」
激昂している彩に一団の後ろの方に立っている男の子の一人は口元に下卑た笑いを浮かべた。
「殺したって人聞きが悪ぃな。……エアガンの的にしてたらお亡くなりになっただけだっつーの!」
その言葉に続いて一団は声を揃えて笑った。
「ぎゃはは! そうそう、お亡くなりになっちまったの!」
「根性ねぇよなー!」
「小動物っつーのはコレだから!」
「鍛えが足りねぇよ、鍛えが! ぎゃはは!」
兎を死なせたことに罪の意識の欠片も持っていない様子だった。
彩は自分とはあまりにも考え方の違う彼らに、怒りを通り越して頭がふらついてくるのさえ感じていた。
しかし、何とか気を取り直して再び叫ぶ。
「アンタたちはぁー!! 残りの兎には手を出させないわよ!」
「……ナニこいつ?」
すっと無表情になる一団。
配置を変えて、少しずつ彩を囲んでいく。
「下級生のクセに生意気よ?」
「オレらが何匹ウサギ殺してもテメーには関係ねーし?」
「つーかウザッ」
「ヤっちまわね? このアマ」
「な、何よ! アンタたち何か……」
怖くない、と言いかけた彩の手を一団の一人が掴んだ。
慌てて振り払おうと暴れる彩だが、六年生の男子と四年生の女子では力の差は歴然だ。
「ちょ……! 離してっ」
「とりあえず体育倉庫にでも放り込んどこーぜ」
「あそこで一晩過ごしゃあ大人しくなるだろ」
「ションベン漏らしてマットとか汚すなよ? ヒヒヒ」
二人が彩の身体を両脇から抑え、残りの三人はそれを隠すように取り囲む。
せめて叫んで助けを呼ぼうとしたが、口にハンカチを突っ込まれてしまった。
「むぐ……!」
このままじゃ兎たちが。
それに見張りをしてくれている友人も危ない。
彩は自分の無力と、この一団を呪った。
ハンカチを突っ込まれたせいで息苦しい。
抵抗するのにも疲れてきてしまって彩はだんだんとぐったりしてきた。
「やっと大人しくなってきたか」
「ったくメンドーな……」
脱力した彩をほとんど担ぐように抱え始める一団。
人気のない校舎に、ずるずると彩を引きずる音だけが響いている。
放課後になってから結構な時間が経っているので、教師はともかく生徒はもう誰も残っていない。
と、思われたが。
昇降口を出ようとした一団の前に、一人の生徒が現れた。
何かの雑誌を小脇に抱えている。
少しサイズの合わない服を着ている他は、特に大きな特徴のない男の子。
強いて言えば多少顔が整っているくらい。
袖の余った服を着た彼は、不自然な一団をしげしげと眺めてくる。
さすがにあまり見られていたい状況ではないので、一団の一人は彼を怒鳴りつけた。
「なにジロジロ見てんだコラ!? どっか失せろや!」
大抵の生徒なら逃げてしまうであろう怒声。
それにはまったく動じずに、むしろどんどんと近づきながら眺めてきていた彼は口を開いた。
「……やっぱり彩か」
呟くような小さな声だったか、それに反応して俯いてしまっていた彩は顔を跳ね上げた。
先ほどから眺めてきている彼は豊だったのだった。
「……!!」
口に詰められたハンカチのせいで声は出せないが、それでも瞳に力が戻る。
「鬼頭さんに彩が遅くなるようなら送ってやってくれって頼まれてたのを忘れてたよ」
目の前の状況をまるで気にしていない様子で淡々と喋る豊。
さらに歩み寄って行く。
「兎小屋の掃除は終わったか? 終わったなら帰るよ」
「……てめぇ!? 思い出した! お前この間死ぬほど無視かました野郎だな!? あの時はオレらに恥を……ぶ!?」
一団の一人が以前のことを思い出して怒鳴りかけた瞬間。
豊は小脇に抱えていた雑誌をそいつの顔面に向かって投げつけた。
「お前何を……!?」
動揺した一団の隙を突いて、いつの間にか距離を詰めていた彼は。
思いっきり腕を振りかぶると、視界を塞がれている一団の一人の顔面に雑誌の上から肘を叩きつけた。
「……!?」
突然のことに周りの空気が凍る。
ぬらりとした音を立てて肘を喰らった一人の顔から雑誌がずり落ちる。
ちょうど一撃を鼻柱に喰らったらしい彼の顔の下半分は血に染まっていた。
「痛い……! 痛いよぉ……!」
派手な出血に怯えてしまった彼は膝を付いて泣き出した。
その様子にさらに固まってしまう残りの一団。
しかし豊は止まらなかった。
硬直していた手近な一人の頭を両手でしっかりと掴み、下駄箱に顔面から叩きつけた。
「ひぎゃ!」
びちゃり、と音を立てて下駄箱が血に染まる。
と言っても鼻血だが。
豊は手を離さずにごりごりと下駄箱に顔を押し付ける。
「やべでぐだざい……。ごべんなざいごべんなざい」
顔を押し付けられている一団の一人はくぐもった声で謝り続ける。
豊はまだ押し付ける手を止めないまま、最早完全に硬直してしまっている残りの一団に話しかけた。
「……次は誰?」
びくり、と身を震わせる残り。
見慣れない血を見せ付けられた彼らは、まだ数で勝っているというのに完全に戦意を失ってしまっていたのだ。
「な、何もしねぇよ! ちょっとふざけてただけだって! ……ほ、ほらコイツもすぐ離すつもりだったし!」
慌ててまだ彩を掴んでいた彼らは彼女からハンカチを抜き取り、ついでに服の埃まで払ってやる。
彩はそんな一団の手を振り払うと、豊の近くまで急いで走りよった。
そして致命的な一言を口にする。
「ゆー兄! こいつら! ……こいつら兎を殺したの! エアガンの的にして!」
「お前……! 余計なことを!」
物凄い勢いで顔を青くする一団。
下級生とはいえ、ここまで格の違いを見せ付けられてしまっているので怯えっぱなしなのだ。
「それは知らないよ」
しかし、しれっとした様子で豊は下駄箱に押さえつけていた手を離す。
やっと開放された男の子はわんわんと泣き出してしまった。
最初に殴られた一人との泣き声の合唱をBGMに豊は淡々とした様子で雑誌を拾う。
「僕は鬼頭さんに彩の面倒を見てやるように頼まれただけだし。……血だらけになっちゃったな」
言いながら拾った雑誌をめくり、顔をしかめる豊。
「ちょっとちょっとゆー兄! こいつら兎殺したんだよ!? 放っておいていいの!?」
食い下がる彩には反応せず、まだ無事な一団に歩み寄る豊。
豊が一歩踏み出すごとに後ずさる一団。
「おいおい。逃げるなよ」
「は、はい!」
「すいませんすいません!」
「もうカンベンしてくださいよー……!」
怯えきった彼らは敬語まで使い出す次第だ。
「雑誌代、弁償してくれると嬉しいな」
一団の前で立ち止まり、すっと手を差し出す豊。
『今すぐに!!』
一団は声を揃えて財布を取り出し、そのまま豊に差し出した。
「多すぎるよ」
豊はぼそっと呟くと適当な財布を受け取り、五百円玉を一枚抜き出す。
そして財布を手渡した。
「小銭ないみたいだから五十円は負けとく」
「あ、ありがとう……」
自分たちの基準からすれば寛大な処置の豊に頭を下げる一団。
しかし彩の気はまるで収まらない。
「ゆー兄ってば……!」
豊は少々うんざりした様子で彩のほうを振り返った。
「兎が殺されたからって僕にどうしろと? これ以上この人たちと関わりたくないんだけど」
豊はひたすら冷めた口調だ。
「オ、オレたちもここらで退散するよ。……いいよな? な?」
「もうそのアマ……そいつ……そのコには手を出さないから」
「じゃ、じゃあな!」
えらく腰の低い態度で無事だった一団は昇降口から飛び出す。
しかし、走って追いかけても追いつけないであろう距離まで離れると、遠くから罵声を飛ばしてきた。
「バーカこの野郎! 兄貴にチクってやる!」
「こいつの兄貴は不良だからな! お前殺されるぜ!?」
「バーカバーカ! とにかくバーカ!」
言うだけ言って走り去ってしまった。
それを無言で見送った豊は、置いていかれた上にまだ泣いている二人のうちの一人に歩み寄った。
蹲っているその顔を無言で蹴り飛ばす。
「ぶあ……!」
くぐもった悲鳴を上げて転がる彼の顔をさらに踏みつける。
「君もまだ僕と彩に手を出したかったりする?」
返事を待たずに、足を振り上げ、叩きつける。
「じまぜん……! もう何もじまぜん……!」
足を振り上げ、叩きつける。
「じまぜんっでばぁ……!」
足を振り上げ、叩きつける。
「ゆ、ゆるぢて……」
足を振り上げ、叩きつける。
「……ふぐっ。うう……」
もう泣くことしかできなくなった様子を見て、ようやく豊は足を止めた。
「そっか、分かった」
踏みにじられている男の子は返事も出来ない。
その顔からまだ足は退けずに、その様子を戦慄して見ていたもう一人の男の子に視線を向ける。
「ひ、ひぃ……! 絶対何もしませんからぁ!」
文字通り床に額を擦り付けて土下座をする男の子。
「君は逃げた連中を説得してくれると嬉しいかな?」
「止めさせます! 絶対に手は出させません!」
「助かるよ」
そして豊は彩の方を振り返る。
「これでもういいと思わない?」
「え……と」
目の前で繰り広げられた惨劇に言葉が詰まる彩。
その態度に豊は足を再び振り上げ……。
「わかった! わかったよ、ゆー兄! もういいって!」
その言葉でやっと豊は足を男の子の顔の上から下ろした。
すたすたと彩に近づいて、やや強引に手を握ると昇降口の外へ引っ張り出す。
「ゆ、ゆー兄?」
「先生来ると面倒だし」
言いながら彩を校舎の外まで引っ張っていこうとするので、慌てて友人が待っていることを告げた。
豊は少し面倒臭そうな顔をしていたが、一応待ってくれることに。
彩は急いで友人のところまで戻ると、簡単な事情を彼女に話して聞かせた。
例のグループに出合ったこと。
豊が助けてくれたこと。
とりあえず兎の件は大丈夫なんじゃないかということ。
豊が助けにきた、という部分には妙に感動していた友人だったが。
「それってちょっとヤバいかも」
友人曰く。
あの一団の執念深さは並大抵のものではないらしい。
今日酷い目に合った二人は切り捨てられるだけ。
直接痛い目に合わなかった連中は確実に仕返ししてくるだろう。
それを聞いた彩は腕を組んで唸る。
「うーん……ゆー兄にお願いして見張りやってもらおうかなぁ」
「それがいいわよ。私たちだけじゃきっと酷い目に合わされちゃう」
「だねっ」
と、いう風に話がまとまったので早速待ってくれている豊の所まで二人は急いだ。
だが。
帰り道の途中。
「お断りだ、ね」
きっぱりと拒否されてしまった。
まさか断られるとは思っていなかったので彩はついつい声が大きくなる。
「何でぇ!? 兎とあたしたちのピンチなんだよ!」
友人は豊がちょっと怖いので何も言えない。
「兎なんか放っておけよ。小屋の近くうろついてなければ大丈夫だろ」
冷え切ったテンションの豊には取り付く島もない。
「兎なんかって! 残りの兎たちが死んじゃってもいいの!」
「知らないよ」
即答する豊。
絶句する彩。
しばし怒りのあまり震えていた彩だが。
「もういい!! ゆー兄なんか大っ嫌い!!」
叫びながら豊の足を思いっきり蹴り飛ばす。
「……つっ」
不意打ちだったので避けられなかった豊はその場で転び、アスファルトに手をついた。
「バーカ! もう頼んないもん!」
倒れた豊に最後に罵声を振り掛けると、彩はそのまま走り去ってしまった。
「ちょっと待ってよ彩ー」
豊のことを少し気にしつつも、慌てて追いかける友人。
その場には道路に膝をついた豊だけが残された。
その表情を見ている者はそこには誰もいなかった。
そして時は流れて。
翌日、放課後。
野球用のヘルメットと箒で武装した彩と友人は小屋の前で陣取っていた。
南京錠は先生に替えのを貰ったので新しくなっている。
「さー! あいつらが来ても追い返してやるんだから!」
「もっと人呼べばよかったね……」
張り切っている彩に対して友人は不安気だ。
「関係ないコを巻き込むわけにはいかないでしょ?」
「そうかなぁ……」
『兎を守る自分』に酔ってしまっている彩は、作戦の人数不足という失敗に気付いていない。
二人で守りを固めること数十分。
「何だ。お前らだけか。せっかく兄貴たちに来てもらったのによ」
例の一団が現れた。
昨日、豊に叩きのめされた二人は来ていない。
やはり完全に豊に恐れをなしてしまっているようだ。
その代わりに中学生の少年が二人ついてきていた。
どうやら彼らが例の兄たちらしい。
「来たわねっ。兎たちには手は出させないんだから!」
「せ、先生呼んじゃいますよ?」
対峙する彩たち。
それに対して一団はどうもやる気がないようだった。
「あいつ来てると思ったんだけどなー。思い違いだったか」
「お前の子分たちを痛めつけたガキってのは来てないのか?」
老け顔の中学生その一はきょろきょろと辺りを見渡す。
「だったらオレらが来た意味なくないか? 弟よ」
馬面の中学生そのニは弟である一団のリーダーの頭をぽんぽんと叩く。
仲は良いようだ。
「すまねー兄貴たち。わざわざ来てもらったのに……」
「いいってことよ」
「だな。わっはっは」
なかなか美しい兄弟愛だった。
そんな中、一団の一人は兎小屋を指した。
そして余計なことを口走る。
「じゃあせめて兎で遊んでいきましょーよ、お兄さん方。あれ的にするとなかなか燃えますぜ?」
「ほう、いいねぇー」
「やってみよーじゃんよ」
兎を的にする、という残酷な遊びにろくでもない兄たちは興味を持ってしまう。
会話を聞いていた彩は箒を構えなおした。
「さ、させないんだからぁ!」
「うう……」
友人も健気に逃げることなくその場に踏みとどまっている。
しかし、一団の眼中に彼女たちは入っていないようだった。
気にせずにずかずかと近づいてくる。
強気に振舞っている彩だが、中学生の大きさの前に正直足が震えていた。
この場に来てくれなかった豊のことを少しだけ恨みかけ……。
そう言えば、昨日助けてもらったのにお礼言ってなかったな。
ということを思い出した。
何だか急に豊に申し訳ない気分になってしまった。
帰ったらお礼言わなきゃ。
そして、豊に気持ちよくお礼を言うために。
目の前の一団を何とかする。
彩はさらに気合を入れて一団を睨みつけた。
「なーにガン飛ばしてんだ」
「このガキどもはどーすんだ? 弟よ」
馬面が一団のリーダーに訊くと、彼はにやりと顔を歪めた。
「こいつの兄貴分には仲間が酷い目に合わされたからな……。こいつも虐めてやってくんね?」
弟の発言に老け顔と馬面は顔を見合わせる。
そして弟によく似た下卑た笑いを口元に浮かべた。
「まったくこんな小さなガキを虐めろなんて……なぁ?」
「おう。とんでもない話だよな」
言いながら箒を構える彩と友人の方に向き直る。
「何よ!」
気丈に振舞う彩にねちっこい視線を向ける。
「せめてイタズラですませるか」
「だな。痛い目に合わせるのは可哀想だからな。イタズラしてやろう」
非常に犯罪的なこと口走る老け顔と馬面。
その弟と一団は意味がわからないので後ろで首を傾げている。
だが、視線を向けられている彩と友人は本能的に身の危険を感じた。
何だかよく分からないけど、怪我するよりも酷い目に合うような気がしていた。
「く、来るなー……」
語尾が震え始めた彩に何かそそられるものがあったのか。
中学生二人はじりじりと迫ってきた。
彩と友人は思わず後退る。
やはり二人だけでは無謀だったかと彩が後悔し始めていると、視界の端に見慣れた姿が映った。
遠くの方から、豊がこちらに向かって歩いてきていた。
昨日と同じようなサイズの合わない服を着ていて、今日は何故か金属バットを片手に持っていた。
来てくれたんだ。
彩は思わず豊の名を叫びかけたが、豊が口元に指を立てるジェスチャーをするのが見えた。
静かにしろ、ということ?
豊の真意は分からなかったが、素直に言うとおりにする。
「お嬢ちゃんたちが大人しくしてたらすぐ済むからなー」
「なー……」
「ひぃぃ」
急に猫なで声になった中学生二人に恐れ慄く友人。
彩は豊が来てくれたことに気付いていたので何とか我慢できた。
遠くに居た豊は中学生二人が彩たちに近づいたのを見て取ると、ぐっと身を屈め。
その場から彩たちに向かって勢いよく駆け出した。
一気に距離を詰める。
「な、何だお前!? どこから……」
「う、うわ?」
急に現れた豊は驚く一団の間をすり抜け。
「何を騒いで……」
後ろが騒がしくなったことに顔をしかめた老け顔が振り向いたところに。
その顔面に向かって、金属バットを叩きつけた。
ぐしゃり、と何かが潰れた音が辺りに響く。
鮮血が飛び散った。
「ひ……ぎゃあああ!?」
鼻を押さえ、絶叫を上げる老け顔。
どうも鼻の骨が折れたらしい。
元々整っているとは言えない顔が、さらに歪み、血に染まっている。
「ふあ!? ああああ!!」
あまりの痛みに転がりまわる老け顔を無視して、豊は次の獲物に襲い掛かる。
先日と同じく、突然の惨劇に硬直してしまっている一団にバットを振り下ろしていく。
豊の一撃にはまるで容赦というものがなかった。
頭か、膝か、顔面か。
次々と悲鳴を上げて倒れ伏す一団。
瞬く間に連撃に、残されたのは馬面だけとなった。
「こ、このガキ……! よくもオレの兄弟を……」
馬面は虚勢を張るが、完全に豊の雰囲気に飲まれてしまっていた。
他の不良めいた中学生と喧嘩ならいくらでもいたことはあるが。
ここまで的確に急所しか狙わない相手には会ったことがなかったのだ。
「なんて汚ねぇ喧嘩しやがんだテメェ……!」
その言葉には全く反応せず、豊はバットを振りかぶり馬面に殴りかかった。
もちろん、狙うは顔面。
しかし、さすがに予想されていたようで両腕でしっかりと防がれてしまった。
痛みに顔をしかめながらも、勝ち誇った表情でバットを掴む馬面。
「バカが! これさえ奪っちまえば……んん!?」
馬面がバットを掴むと同時にあっさりと手を離す豊。
そして彼は右腕を素早く振った。
すると、袖の中から何かがパンパンに詰まった靴下が飛び出した。
その端を素早く握り込むと、馬面のがら空きになっている脇腹に叩き込む。
骨が軋む音が、馬面には確かに聞こえた。
「か……は……!?」
崩れ落ちる馬面。
豊は握っているものと倒れ込んだ馬面をしげしげと見比べる。
「長靴下に砂を詰めてみたんだけど、結構痛いみたいだね」
「お前……! それはブラックジャックっていう暗器……ぐべ!!」
まだ喋る元気のあった馬面の脳天に、馬面の言うところのブラックジャックを叩き込み静かにさせる。
転がったバットを拾い上げると、豊はどうでも良さそうな口調で呟いた。
「えーむ、ぶーい、ぴー……ってね」
器用に手の中でくるくるとバットを回しながら彩たちの方に首を向ける。
「悲鳴とかで人が来ると思うから。君らも逃げろよ」
それだけ言うと、来た時と同じようにさっさと走り去っていってしまった。
残されたのは悪ガキたちの成れの果てのみ。
あんまりな光景に硬直していた彩だったが、走り去る豊の背中に力いっぱい叫んでおいた。
「助けてくれてありがとぉー! 今晩は御馳走作るからぁー! 家に来てねー!」
その声が聞こえているのかいないのか。
小さくなっていく豊は特に反応はしなかったが、その背中を見て彩の胸には何だか暖かい気持ちが芽生えていた。
優しくしてくれるわけじゃないけど、自分のことは見てくれている。
そんな豊の態度を嬉しく思う彩。
「……それはいいけど、この人たちどうしよ」
その横で、血にまみれた目の前の光景に青ざめる友人だった。
「……で、それで完全にこりたそいつらは二度と兎に手を出さなかったどころか、それ以来すっかり大人しくなっちゃって」
小学校の暗黒時代も終わったってわけですよ、と彩は話を締めくくった。
「じぇんとるはやっぱり良い奴ねぇ……。それをきっかけにじぇんとるに惚れちゃったとか?」
豊のエピソードを聞けて満足気な由美は彩に野暮なことを問いかける。
しかし、彩はあっさりとした様子で首を横に振った。
「いや? この時は別に。まぁこういうことの積み重ねでゆー兄のことを好きになったってことですよん」
「こんなことが積み重なる程あったんだ……。というか吉野くん凶悪すぎ」
むしろそのことに驚いている恵理は常識派である。
「あの人も無闇にイベントだらけの人生歩んでるのねー……」
そんな恵理がしみじみとそう呟くと、店の中に話題の主である豊が戻ってきた。
「あれ? ゆー兄帰ってきたんだ。やっぱり晩御飯は家で食べてくのねっ」
勢いよく抱きついてきた彩を抱きとめ、適当にあしらいながら豊はそれを否定する。
「財布忘れただけ。悪いけどすぐまた行くよ」
「そうなんだ……」
「家で食べていってあげればいいのに」
豊がまた行ってしまうということを残念がる由美と、あくまで彩の味方な恵理であった。
否定されるのは分かっているので特に残念そうでもない彩は、ふと思いついて豊に訊いてみた。
「ねぇねぇ、ゆー兄。兎って聞いてまず何を思い出す?」
自分にとって大事な思い出が、豊にとってはどうなのかということが気になったのだ。
ごろごろと抱きつきながらも彼の様子を窺う。
豊は少しだけ顎に指を当てて、考え込むと何故か急に遠い目になってしまった。
あまり良い思い出が頭に浮かんでいる様子ではなかった。
「じぇんとるはいったい何を思い浮かべたのかしら?」
「さぁ?」
「……あ! ゆー兄!」
彩は豊からばっと離れると、ずびしと指を突きつける。
「井上さんのこと思い出してるでしょ!」
豊は遠い目から立ち直るが、彩から無言で視線をそらしている。
「井上って……まさか写真のあの娘!?」
由美も思わずいきり立つ。
「誰なの?」
恵理だけが蚊帳の外だ。
「井上美代子! ゆー兄の初恋の人! 友達の間でのあだ名はウサギさん! ……なんでそっちを思い出すかなぁ、もぉ!」
テンションが上がってしまった彩はべしべしと豊をはたく。
「ウサギさん! 何だか可愛いあだ名ね! ……駄目じゃない、じぇんとる! 吹っ切れなさい!」
ついでに一緒になって豊を叩きにかかる由美。
それらの猛攻を甘んじて受け入れてる豊。
一人参加せずに眺めている恵理と目があった。
「じぇんとるさんも大変ね?」
豊はやっぱり何も言わなかったが、目に疲労の影が少し宿っていたりするのであった。
もどる/
TOPへ/
すすむ