「いらっしゃい、じぇんとる君」

「こんばんは、マスター」

古びたドアを開けて入ってきた吉野豊を、カウンターの中でグラスを磨いていた初老の男は笑顔で迎える。

照明の抑えられた店内にはじぇんとるの他には、ただ一人しか客がいなかった。

年季の入ったカウンターにもたれ掛かるように着いていたその客は、じぇんとるを見ると手にしていたグラスを掲げた。

「よぉ、じぇんとる」

「久々だな、ダーティ」

じぇんとるはその客の隣に腰掛ける。

じぇんとるはマスターにブランデーを注文すると、改めて隣の客に声をかけた。

「最近どうだ?」

ダーティと呼ばれた客は若かった。

というかまだ明らかに未成年である。

こざっぱりとした服装の、何となく子犬を連想させるような人懐っこい顔つきをした少年だった。

ダーティは自分のグラスを振って、からからと氷を鳴らす。

「どーもこーもねぇな。相変わらず学校はつまんねぇし、女は出来ねぇし」

顔に似合わず、少し汚い言葉使いだった。

「こっちも似たようなものだな。学校じゃあ面倒ばっかり押し付けられるし。頼みもしないのに女の子が寄って来たり」

じぇんとるも眉間に皺を寄せながら喋る。

学校にいる時とは違い、随分と能弁になっている。

そんなじぇんとるのぼやきにダーティは舌打ちをした。

「女が寄って来るだけいいじゃねぇか」

あぁそういや、とダーティは続ける。

「お前の噂、俺の学校にまで届いてるぞ。クールで二枚目な紳士のじぇんとる君ってな」

下卑た笑いを浮かべるダーティにじぇんとるは眉間の皺をいっそう深くした。

「迷惑な話だよ。それに最近、僕に何故か恋愛相談する人が増えてきたし。……たまんないね、まったく」

そう言って一気にグラスを煽り、マスターにおかわりを注文する。

次のブランデーを注がれながら、じぇんとるはダーティに言い返す。

「ダーティの噂もこっちまで届いてるよ。可愛い顔してるくせに、汚い言動で乱暴者のダーティって」

言われたダーティは渋い顔になった。

「マジか。嫌な噂になってるなオイ。もしかして俺がモテないのはその噂のせいか」

「さあねぇ」

二杯目はちびちびと飲みながら、じぇんとるは気の無い返事をする。

「あー……。モテてぇなぁ、畜生。つーかお前も何でまた高校入ってから急にモテるようになったんだ? 中学の時まではそこまで人気なかったような気がするんだが……あっ」


喋ってる途中でダーティは急に何かを思いついたらしく、強くカウンターを叩いた。

それを困ったような笑顔で見ているマスターの視線に気付いたじぇんとるはやんわりとダーティに注意した。

「こらこら」

「あぁ、わりぃわりぃ。で、だな。お前がモテ始めた時期って、あの女にフラれた後くらいからじゃね?」

じぇんとるはダーティの言葉に遠い目をしながらグラスを傾ける。

「そうかもね。……井上さんは元気にしてる?」

ダーティは、じぇんとるの初恋の相手である井上美代子と同じ高校に通っているのだった。

ちなみに相当レベルの高い学校である。

それに比べてじぇんとるの通う学校は勉強もスポーツも月並みな成績の平凡な学校だ。

「井上なぁ……。あいつは毎日毎日いっつもいっつもメソメソメソメソと鬱陶しい女だ」

「相変わらずみたいだな、井上さんも」

そう言って少し表情を緩めるじぇんとる。

どことなく嬉しそうだ。

「ってかよー。じぇんとる」

「なんだ」

ダーティは心底納得できない、といった様子でじぇんとるに尋ねる。

「あんな箸を床に落としただけで泣いちまうような泣き虫にお前が惚れる道理がわからん」

訊かれたじぇんとるは顎に手を当てて黙り込んだ。

「んー……」

そのまま少し固まってしまう。

「何だよ自分でも分かってねぇのか?」

呆れた様子のダーティにじぇんとるは慌てて手を振る。

「いやいや、そんなことはないよ。そうだな……」

強いて言えば、とじぇんとるは続ける。

「笑うと可愛いところかなぁ」

ほ、とダーティは口を丸くさせて笑った。

「何だそりゃ。天下のじぇんとる様というものがベタな話だな」

「からかうなよ。仕方ないじゃないか」

じぇんとるは重いため息を吐く。

「しかしアレだな。井上は何でお前をフったんだろうなぁ。お前ら結構仲良かったと思ってたんだが……」

グラスに入っていた氷をばりばりと噛み砕きながらダーティは不思議そうな顔をする。

ダーティの言葉を訊いたじぇんとるはグラスを無意味に手の中で弄り回す。

「ちょっと本音言っていいかな」

「言ってみろよ」

ぼそっと呟くじぇんとるに軽い調子で頷くダーティ。

じぇんとるはカウンターに突っ伏すと家でも学校でも決して出さない、情けない声を搾り出すように発した。

「……絶対OK貰えると思ったんだけどなぁ」

「ぎゃははははは! こ、こいつ全然立ち直れてねぇー!!」

そんなじぇんとるを指差しながら、ダーティは腹を抱えて爆笑した。

「なーにが紳士なじぇんとる君だ! 実際はただの不良のクセによぉ。……あー、たまらん。ウケるウケる」

あんまりにもあんまりな笑い飛ばしっぷりだったが、じぇんとるは特に気分を害した様子はない。

突っ伏した姿勢のままで、まだぼやいている。

「一緒に帰ったりさ、一緒に遊びに行ったり、部屋にまで入れてくれたりしてたのに……何がいけなかったんだろう」

「遊ばれてたんじゃね?」

「いや、それはない……と思いたい」

ダーティの失礼な発言にもじぇんとるは強く言い返せない。

そんな弱気なじぇんとるを見て、ダーティはまた笑う。

「冗談に決まってんだろが馬鹿。あの女にそんな器用なことできっかよ」

「そうだよな……」

それでも、じぇんとるはまだ力無くカウンターに這いつくばっている。

「もうお前も井上のこといい加減諦めたら? 女にゃ苦労してないんだろ」

「いや物凄い苦労してる」

やっと顔を上げたじぇんとるは虚ろな瞳になっている。

「モテてるんだろ?」

「だから困るんだよ。もう高校入ってから13人、お断りしてるからな」

うんざりした様子のじぇんとるの顔面目掛けて、ダーティは拳を振るった。

じぇんとるはそれを首を少し反らしてかわす。

「殴らせやがれ」

「断る」

「……ったく。とりあえず付き合っときゃいいだろうが。クソ真面目な野郎だ」

忌々しそうなダーティにじぇんとるは人差し指をぴんと立てて、語りだした。

「僕はね。井上さんにフられてから頭で分かってることは全部やろうと決めたんだよ」

「何だよ急に」

「まぁ訊いてくれ。それで、だ。だから僕は泣いてる人には手を差し伸べ、困ってる人には力を貸し、弱ってる人には微笑みかける。 そんなことばっかりを高校に入ってからはしてたんだよ。良い人ならこうするだろうってことを」


「ほぅ」

ダーティはマスターからボトルを受け取り、直に口を付けて飲んでいる。

「理想の自分というものを演じてみてるんだ。そうやって自分を磨いてたら、いつかまた好きな女の子が出来ても 自信を持って接することができると思って」


「話が長い。で、お前が女をフる理由は結局何なんだ」

「まぁただ単に格好良い男は惚れてもない相手とは付き合わないかな、と」

「何だそりゃ」

ダーティはボトルを煽ると、雷のようなげっぷをした。

「見栄張ってるだけか」

「それもある。あと基本的に女の子と話すのは疲れる。それに、好きでもないのに付き合うのは相手にも悪いしな」

付き合わないほうがお互いの為だろ、とじぇんとるは言う。

「俺なら確実に寄って来た女は頂くがなぁ。エロいことしたいし」

実に素直なダーティにじぇんとるは苦笑い。

「僕もしたくないって言ったら嘘になるけど。器用じゃないから一回そういう関係になったら結婚までいってしまいそう」

「ということはお前もまだ未経験か」

「いかにも」

ダーティは少しほっとした様子だ。

「そうかそうか。じゃあ今の時点じゃ差はないな」

そんなダーティの言葉を、じぇんとるは少し顔を赤くしながら否定する。

「悪いけど僕はキスはもう経験済み……」

言い終わるか終わらないかといううちに、ダーティがボトルをじぇんとるの頭に向かって振り下ろした。

今度は身体ごと大きく仰け反らしてかわす。

危なかったのか、じぇんとるは少し冷や汗をかいていた。

「どこの女とだよ。畜生が。羨ましい……」

「せめて素手で殴って欲しいな、ダーティ」

切実なじぇんとるの訴えには耳を貸さず、ダーティは一人で話し始める。

「ところで話変わるが。最近ちょっと気になる女がいてなぁ」

「へぇ」

唐突に変わる話にも、じぇんとるは何事も無かったかのように返事をする。

「同じクラスで佐藤恵理ってんだけどな」

じぇんとるの耳がぴくりと反応する。

「ちょっと前まで勉強ばっかしてる野暮ったい感じの女だったんだがな。良く見ると最近細々としたところに気を使ってるみたいで 急に可愛くなってきたんだよな。お洒落に目覚めたんだろーか」


「バイト始めてお金に余裕が出てきたからじゃないかな」

じぇんとるはダーティから目を逸らしつつ、グラスを傾ける。

「そうだな。バイトでも始めたのかもしれんな。……かー! あぁいう勉強以外は何も知らなさそうな女を俺の色に染めてみたもんだぜ」

いったい何を考えているのか、ダーティは言いながら下卑た笑いを口元に浮かべた。

「ダーティ。先に謝っておくけど」

じぇんとるは椅子から少し腰を浮かせながら口を開いた。

「ん、何だ?」

「さっき僕が言ったキスの相手、その佐藤さんなんだ」

ダーティは椅子を蹴倒しながら立ち上がった。

じぇんとるも素早く腰を浮かし、ダーティから距離をとる。

じりじりと間合いを計りながらダーティは訊いてきた。

「詳しく話を聞かせてもらおうか」

「佐藤さんは僕と同じ店でバイトをしている。そこでまぁ、ちょっとしたハプニングで。恋愛沙汰ではない、よ」

色々な意味で、佐藤恵理の件に関しては詳しく言えない。

「また告白されたんじゃないだろうな」

「むしろ少し嫌われてるような気がする。逆にこっちが惚れかけた」

じぇんとるの台詞にダーティは興味深そうに肩眉をぴくりと上げた。

「ほぉ、井上一筋のお前が?」

椅子を起こして座り直すダーティ。

じぇんとるもその隣に腰掛ける。

「うん。自分でもびっくりした。キスされただけであそこまで心が傾くとは驚きだ」

僕は押しに弱かったみたい、としみじみした様子のじぇんとる。

「まぁ井上のことからして打たれ弱いのは知ってたが……。押し倒されたりしたら、どこまでも流されていきそうだな、お前」

「僕は流されやすいからな。自分でも自信ないよ」

「そうかい。もうどうでもいいけどな」

ダーティは、だらしなくカウンターに崩れ落ちた。

「はー……。しっかしなぁ。佐藤がお前と……はぁ」

見るからに意気消沈している。

「まさかとは思うけど。佐藤さんのこと、好きだとか言わないでくれよ?」

確認するように尋ねるじぇんとるにダーティは顔を上げずに唸り声で返事をする。

「そんなんじゃねぇよ。ただなー。また可愛い子が一人、俺の前から去っていってしまったかと思うとなー」

「いや別に去ったわけではないだろ」

ダーティは恨むような目付きでじぇんとるを見つめる。

「でもお前のお手つきだろ?」

「そういう考え方はよくない」

ずばり言い切るじぇんとるに、ダーティはため息を吐いた。

「そりゃそうだけどな。俺の気持ちも分かってくれよ」

「まぁねぇ。僕ももし井上さんに彼氏が出来たりしたら寝込みそうだ」

気だるい雰囲気が二人を包む。

それからしばらくは何も言わずにちびちびとブランデーを飲んでいた。

先ほどから彼らはブランデーをストレートでつまみも無しで飲んでいるが、まるで水でも飲んでいるかのように煽っている。

あまり良い酒の飲み方には見えないが、マスターはグラスを磨きながら、愚痴りあう二人を微笑ましそうに眺めていた。

「彼女が欲しい……。もう性格良くてエロ可愛くて胸がでかくて俺の言うこと何でも聞く女だったら誰でもいいから」

アルコールが回ってきたのか、目が座っているダーティ。

「範囲狭いな。でも確かに彼女は欲しい……」

もう他の知り合いに見られたら確実に「イメージ崩れた」と言われそうなとろんとした顔で、じぇんとるも同意した。

ダーティは不愉快そうに鼻を鳴らす。

「つまんねぇ意地を張らなきゃいいだけの話だろう、畜生が」

「愛されるより愛したいってやつだな。……あー井上さん……」

ダーティは鬱陶しそうに鼻を鳴らした。

「……ったく。お前みたいな女々しいのが何でモテるんだか」

「僕に文句言うのは彼女作ってからにしてくれたまえ」

じぇんとるは口を端を持ち上げて、気取った感じで微笑む。

ダーティが音を立てて歯を軋ませる。

「畜生……! テメェにだけは負けられん。絶対に幸せになってやるからな!」

「こっちこそ。幸せになってやるとも」

ダーティの言葉に応じてグラスを掲げるじぇんとる。

そして二人は外が明るくなるまで飲んで過ごした。

普段周りの人間には言えない愚痴や不満を散々ぶちまけたので、随分すっきりした顔になっていた。

肩を組み合ってふらふらしながら帰る二人をマスターは終始微笑みながら見送るのであった。



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