恵理は虚ろな顔で夕暮れの街を歩いていた。

勉強勉強毎日勉強。

恵理がもう少し活発な少女であればスポーツに打ち込めたでろうが、彼女は運動は大嫌いだった。

それにとくにのめり込める趣味も持っていない。

恵理はストレスが貯まりっぱなしだった。

しかも別に好きではない勉強は大得意なのだから困る。

テストを受ければ常に一位。

末は東大、エリートか。

周りの期待はどんどん高まり押しつぶされそうだった。

もう佐藤恵理は疲れ果てていた。

自分の通う進学校の厳しい授業内容に。

厳格な風紀、校風。

そしてそこで学年一位の成績を意地し続けている優等生の自分自身に。

良い子な自分はうんざりなので、恵理は今日も悪事を働くことにする。

昼間は優等生、放課後は悪い子。

この分かりやすいギャップが快感なのだ。

恵理は手ごろなコンビニに入ると、適当に店内を物色した。

店員は眠そうに欠伸を噛み殺していた。

いけるわね。

監視カメラの位置を確認、店員の目を盗んで目に付いた小さな菓子に手を伸ばす。

そしてそのまま鞄の中に滑り込ませた。

胸の鼓動が高まる。

恵理は菓子を鞄に入れたまま店内をもう少し見て周るふりをしてから外に出た。

気取られないように、いつもの優等生の顔のままで。

店から出てしばらく歩いた所で恵理は安堵のため息を漏らした。

この瞬間が堪らない。

秀才女子高生が万引きなんて、ありきたりな上に犯罪だが彼女にとっては最高のストレス解消法だった。

気分が高揚しているのが分かる。

しかしまだ足りない。

もっともっとこの感覚を味わいたい。

そう思った恵理は適当に選んだ小さな本屋の中へ入った。

BOOKS鬼。

なんか怖い店だと少し思った。

鬼、という字が大きな筆で書き殴ったようなデザインなのがまた……。

自動ドアを抜けると、レジの中にいた恵理と同じくらいの年頃の眼鏡の少年がエプロンを着けてパイプ椅子に座っていた。

恵理を見ると立ち上がり、輝くような笑顔を振り撒いてきた。

「いらっしゃいませ」

少しどきりとした。

こんな明るく屈託のない笑顔を見たのは初めてかもしれない。

顔もなかなか二枚目なのもあって恵理は少し先ほどとは違う胸の鼓動を感じていた。

だが今はそれはいい。

今の私は悪い子だ。

恵理は自分にそう言い聞かせると店の中の物色を始める。

無用心なことに監視カメラは付いていない。

レジにお客の様子が見えるように鏡が大きな鏡が何枚か天井に貼り付けられているだけだ。

この程度なら簡単ね。

恵理は鏡の死角をあっさり見つけると、適当な少女漫画を一冊手に取り鞄に滑り込ませる。

そして後はコンビニの時と同じように店内をうろついてから外へ……。

「お客様」

恵理の肩にそっと手が置かれた。

高揚していた気分が一気に冷える。

心臓が止まったかと思った。

ぎこちなく振り向くと天使のような微笑を浮かべた先ほどの店員がそっと恵理の手をとった。

まるで姫の手をとる騎士のような優雅さだった。

「少々奥に来て頂けますか?」

でも現状はそんなに甘くはない。

恵理の顔は蒼白になっていた。









「お名前とお電話番号を教えて頂けませんか? ご自宅へ連絡などをしなくてはいけませんので」

鞄の中に盗んだ品が入っていることをあっさり見抜かれ、恵理はパイス椅子に座らされていた。

ここ、店の奥の小さな部屋で恵理は身を固くして黙り込んでいる。

恵理と向かい合わせに、同じくパイプ椅子に腰掛けた店員の少年は手にボールペンを持って静かな視線を彼女に送っている。

二人はかなりの長い間そうやって向かい合って座っていた。

たまに店から客の呼ばれて少年がレジに出るために部屋を出る以外はずっと無言で向き合っている。

少年は最初に名前を尋ねてからは無理に名前を聞き出そうとはしなかった。

恵理はその静けさが逆に恐ろしかった。

尋問めいた質問攻めをされても困るが、静かに見つめられていても何をどうしたらいいのか解らない。

小一時間ほどそうしていただろうか。

少年は少しだけ眉をひそめた。

「どうしても言えない、か」

もう敬語は使っていなかった。

そして彼はペンを置くと机の上の電話を手に取った。

迷いのない動作で番号を打ち込んでいく。

電子音は三回しか聞こえなかった。

三回。

恵理は慌てて立ち上がった。

「ど、どこに電話してるの?」

「警察に決まってるだろ」

返ってくる返事は平坦な声だった。

「お願い止めて……」

恵理は少年に懇願するが彼は無視して受話器に耳を当て、警察が電話に出るのを待っている。

さすが110番、すぐに繋がったらしい。

少年が何か言おうと口を開きかけた瞬間、恵理は電話に飛びついて無理矢理電話を切った。

荒い息を吐いている彼女は自分を見下ろす冷たい視線を痛いほど感じていた。

彼女はその体勢のまま少年に向かって必死に謝った。

「ごめんなさいごめんなさい。お願いだから警察と家と学校には連絡しないでください……!」

お願いします、と悲痛な声で懇願する恵理。

そんな様子にはまるで同情した様子もなく、少年は口を開いた。

「三倍」

え? と恵理は顔を上げて少年の顔を見上げた。

顔に少しだけ呆れたような色を浮かべて彼は続けて口を開いた。

「店長に、万引き見逃すんだったら盗んだ商品の三倍料金払ってもらえって言われてるんでね」

見逃すんだったら。

恵理は表情をぱっと輝かせた。

慌てて鞄の中を探り始める。

「い、今すぐ払いますね」

財布は鞄の中にはなかった。

恵理は焦りながらも続いてポケットの中などを探るが財布がない。

家に忘れてしまったようだった。

彼女は顔を青くしながら現金がないか、調べるが。

366円。

彼女が持っていたのはそれだけだった。

普通に万引きした漫画を買うことすらできない。

恐る恐る自分の手持ちを少年に差し出してみた。

彼は無言で再び電話に手を伸ばした。

「今からすぐに家に帰ってお金取ってきますから!」

少年は泣きながら足に縋り付いてくる恵理を冷たい視線を見下ろす。

今までまだ穏やかとも言える表情だった少年だが、軽蔑しきった瞳になっていた。

絶対零度の視線に貫かれ、恵理は何も言えなくなった。

その場にへたり込んで少年からの視線から逃れるように床を見つめている。

彼女にはもうどうすればいいのかわからなかった。

ぼろぼろと大粒の涙を零していると。



しゅぼっ。



大きく何かが燃え上がる音がした。

驚いて思わず顔を上げると、脚を組んで座りなおした少年が大きなジッポを右手に持っている。

ジッポからは青々をした炎が吹き出ており、彼は気だるげな仕草で煙草を取り出し火を着けた。

煙草を咥えた少年は立ち上がり、部屋の窓を少しだけ開けた。

「財布も持たずに万引きして。名前も言えなくて」

彼はゆっくりと煙を窓の外に向かって吐き出す。

「家にも警察にも連絡しないで、か」

ほとんど吸っていない煙草を机の上にあった灰皿に押し付けて、彼女を見もせずに受話器をまた取った。

「あまり世の中を舐めちゃあ、いけない」

「や、やめて!」

恵理はまた足に縋り付くが今度は少年は止まってくれない。

「お願いやめて!」

悲痛な声を上げる彼女を見向きもせずに番号を打ち込み始める少年。

「何でもしますから! 何でも言うこと聞きますから!」

少年は手を止めた。

ほっとする恵理。

彼は受話器を置くと呆れた口調で言ってきた。

「366円しか持っていなかったから男の言うことを何でも聞きます、か」

安い女だねぇ、と少年は蔑んだ様子で続けた。

床を見つめて座り込んでいる恵理を見下ろして彼は小さくため息を漏らす。

「……まぁいいさ。ちょっとここに居てくれるかな」

そう言い残して彼は部屋から出て行った。

しっかりとドアには鍵を閉めて。

取り残された恵理は少年の冷たい視線から開放されて大きく息を吐いた。

視線だけで殺されるかと思ってしまった。

しかし自分はこれからどうなるのだろう。

警察などに連絡するのは許して貰えたようだが、このまま彼が無事に帰してくれるとは思えない。

もしかしたら急迫されてしまうのかもしれない。

恵理は脅されて自分が少年のなすがままになっているところを想像して青くなった。

いったい自分はどうなってしまうのか……。

「まだ床に座り込んでたの。そろそろ椅子に座りなよ」

少年が戻ってきた。

恵理は驚いて跳ね上がるように立ち上がった。

自分が色々と暗い未来を想像している間に結構時間がたっていたようだ。

少年の方に向き直ると彼は手にジャージとエプロンを持っていた。

「その制服の学校はバイト禁止だからねぇ。とりあえず今日はジャージでも着て」

あとこれエプロン、と差し出されたものを恵理は受け取った。

戸惑いながら尋ねる。

「ば、バイトって……?」

彼は何も言わずにドアの方に視線を向けた。

釣られて恵理も目を向けて、腰を抜かしかけた。

それこそ鬼のように恐ろしい顔つきの大男が立っていたからだ。

男は無遠慮な目付きで彼女の身体をねめつける。

少年が着けているのと同じ、鬼と書き殴られたようなプリントがされているエプロンが恐ろしく似合っている。

恵理が視線に耐えかねてがたがた震えていると、男は突然破顔一笑した。

「そんな怯えなくてかまわんぞ! ここで働きたいなら働かせてやる!」

凄い大声だった。

「…へ?」

「話はじぇんとる君から聞いたぞ!」

ばしん、とじぇんとると呼ばれた少年の背中を叩く男。

物凄く痛そうだが、彼は慣れているのか顔色一つ変えない。

「不景気で家計が苦しい! 助けのためにバイトしたくも校則で禁止! そこでたまたま知り合ったじぇんとるに頼んで!」

ばしん、とまた男は意味もなく彼の背中を叩く。

「この店にバイトしにきたってか! 良い話じゃねぇか!」

ばっしんばっしん彼の背中を叩く男。

よく見ると表情は変えていないが、少年は上体がふらふら揺れるのを足を踏ん張って堪えている。

「接客できる店員はじぇんとるだけだったからな! もう一人くらい欲しいと思ってたところだ!」

呵呵と笑う男に恵理は何も言えない。

とりあえず少年が万引きのことを黙ってくれているのはわかった。

「で、口座作ったらバレるから給料は手渡しがいいんだろ? 月末にじぇんとるに渡しとくからしっかり働けよ!」

最期の勢いよく腕を振りかぶり、少年の頭に振り下ろした。

彼は軽くステップして豪腕をかわす。

男は不満気にちらと少年を睨んで

「じゃあな! 孝行娘!」

と、言い残して去っていった。

静かになった部屋。

「と、いうことで今日から君にはこのお店で働いてもらうことになりました」

少年はどことなく品のいい身振りで両手を広げた。

「そしてバイト代はすべて僕がいただきます」

想像していたよりもマシだったけれど。

これからの苦労が目に見えるようで恵理は目の前が暗くなるのを感じるのであった。









その日から恵理の勤労の日々が始まった。

学校が終わるとすぐにBOOKS鬼に直行。

そこで、じぇんとるの助手のような仕事をやらされるのだ。

ちなみに少年は恵理に名前を教えてくれない。

悪人に名乗る名前はないから君も僕のことを「じぇんとる」とでも呼んで、と言われた。

彼女はちょっぴり傷ついた。

しかし傷つく暇もため息を吐く暇もなく、仕事を次々とじぇんとるから押し付けられる。

品出し、商品整理、レジ打ち等などと目の回るような忙しさ。

授業に備えて宿題などもしなければならないのにこれでは堪らない。

このままでは成績が下がってしまう。

と、そんなことを思い悩む暇もないほど時間のない恵理は学校の休み時間、机に噛り付いて宿題と格闘していた。

「恵理ってば最近頑張ってるねー」

そんな恵理の顔を覗き込んできた一人の少女がいた。

恵理は手を止めると彼女に向かって苦笑いをした。

「まぁね」

「少し前まで魚の腐ったような目をしてたのにね」

彼女は恵理の顔をしげしげと眺める。

「何か生き生きしてきたね。最近は充実してるのかな?」

「さとこ。魚の腐ったような目って……。まぁいいわ。私って最近そんな風に見えるの?」

こんなにも疲れた日々を送っているというのに。

友人である今井さとこに尋ね返すと彼女は大きく頷いた。

「そりゃもう。良い趣味でも見つかったのかな? ストレス溜まるぅってボヤかなくもなったし」

「そういうわけでもないんだけど……」

事情を説明するわけにもいかないので恵理は曖昧に誤魔化しておく。

それにしても自分はそんな風に見えるのか。

たしかに最近は以前のような鬱屈した気持ちがなくなっているような気もする。

休みの日などに朝から働いたり。

自分は今日は休みだからと出かけるじぇんとるの背中を睨みつけたり。

ふがふが喋るお客のお婆ちゃんの話を一生懸命聞いたり。

ボヤく暇もない。

しかし、に充実していると言えば充実しているのかもしれない。

不本意な充実の仕方ではあるけれど。

そしてもう一つ不本意なのが、だんだんと楽しくなってきたことだ。

自分が並べた本が売れていくのは何となく嬉しい。

お客さんとのやり取りが面白い。

仕事の後にじぇんとるが入れてくれるお茶は美味しい。

認めたくはないが、あの店は居心地がいいのだ。

渋い顔をして黙り込んだ恵理をさとこは不思議そうな顔で見ていた。









今日も今日とて朝から恵理は店に立っていた。

せっかく学校の創立記念日で休みだというのに。

いくら楽しくなってきたからと言っても休みもないのは辛い。

もう働き始めて一ヶ月が立つので休み無しもそろそろ限界なような気がする。

心の中でじぇんとるの悪口を連ねながらレジに座っていると、ガラス越しに見えた店の前を通った男女二人が目に付いた。

学校帰りらしい制服姿のじぇんとると、同じく制服姿の少女が楽しげに話しながら歩いている。

いや基本的に少女が一方的に話していて、じぇんとるは時折相槌を打っているだけだ。

それでもその少女が大切に扱われている様子は見て取れた。

二人は恋人同士なのだろうか。

店の前で立ち止まり、立ち話をしている彼らを見ているうちに恵理は何となく腹が立った。

別に嫉妬しているわけではない。

自分が無理矢理働かされて稼いだお金でデートなどをするのかと思うと不愉快極まりないのだ。

まだ給料日まで働いていないのでまだ実感は薄いが、給料を貰えない給料日である今日が終わったらますます腹が立ちそうだ。

他にお客も来ていなかったので心置きなくブスっとした顔で彼らを睨んでおくことにした。

少しして、少女の方は手を振って笑顔で去っていった。

じぇんとるは彼女を見送ると店の中に入ってきた。

不機嫌そうな顔の恵理を見て無言で片手をあげた。

相変わらず無口な少年だと思う。

「お帰りなさいませ、じぇんとる」

慇懃無礼に言ってやる。

彼は意に介した様子もなく恵理の前を通り過ぎて店の奥に消えた。

今日は彼は休みなはずなのに何しに来たんだか。

彼はそんなに働き者でもないようで、仕事を恵理に教えた後は週に3回くらいしか来なくなっているのだ。

まぁそれはどうでもいい。

恵理は少し暇になったので単語帳を捲り始めた。

こうやって隙を見つけて勉強しないと成績が下がってしまう。

両親には学校で友達と勉強している、図書館で勉強している、などを言い訳にここに来ているのである。

集中して暗記に励んでいると、店内にひょっこり先ほどの少女と同じ制服を着た女の子が入ってきた。

「やっほー。佐藤さん今日も頑張ってますねっ」

「こんにちは。彩さん」

ここの店長の娘の彩だった。

この娘は何が楽しいのか知らないが、いつもニコニコしていて羨ましい限りだ。

「ゆー兄ちゃんお店来てなかった? そろそろ学校から帰ってると思うんだけど」

彩が口を開けば、ゆー兄ちゃんという単語が出てくる。

おかげでじぇんとるの本名が「ゆ」から始まるのだけはわかった。

ここまでベタ惚れだと見ていて恥ずかしくなってくるな、と恵理は思う。

「お店の奥にいるわよ」

恵理が指で奥を指しながら言うと彩は両手を打ち合わせた。

「そっか。じゃあ今日は家でご飯食べるみたいね。今のうちに作っちゃおっと」

「彩さんが彼のご飯作ってあげてるの?」

何とまぁ甲斐甲斐しい。

恵理が少々呆れた顔をしていることには気付かずに彩は嬉しそうに頷いた。

「うんっ。ゆー兄ちゃんはよく夜に出かけるから晩御飯を家で食べないこと多いんだけど。そうじゃないときは作ってるよ」

ゆー兄ちゃんのパパさんとママさんは共働きだしね、と話す彩の話が惚気話に聞こえて途中から聞き流そうかと思いかけた恵理。

しかし先ほど彼が他の女性と歩いているのを思い出した。

まだ嬉々としてじぇんとるに自分が何をしてあげてるかを話している彩。

彼女のじぇんとるへのベタつき具合から考えて二人が付き合っていないということは考えにくい。

でも先ほど彼と歩いていた少女もただの友人同士には見えなかった。

恵理は顔には出さなかったが内心顔をしかめた。

彼は二股をかけているのだろうか。

だとしたら許しがたい。

脅迫している割には労働時間はともかくこき使ってくるわけでもないし、無理難題も言ってこない。

重い荷物は持ってくれるし、仕事が終わればお茶も入れてくれる。

おまけに仕事が長引いて遅くなった時は送ってくれたこともあった。

何だかんだで良い人なんじゃないかと思い始めていたのだが。

二股するような人は最低だと恵理は思う。

あとで問い詰めてやろう。

「恵理さん、何怖い顔してるの?」

考え込んでいると彩が不思議そうな顔で訊いてきた。

恵理はそれに微笑みを返す。

「何でもないわよ。それよりご飯の支度するならそろそろ行ったほうがいいんじゃない? 彼、出てきちゃうわよ」

「あ、それもそうねっ。うっかり長居しちゃった。それじゃ恵理さんまたねー」

「またね」

元気良く跳び出て行く彩を見送って、恵理は軽く店の奥のドアを睨んだ。

どうしてくれようか。

待ち構えているとじぇんとるが奥から現れた。

湯気を立てたカップとお茶菓子を乗せたトレイを持って。

彼は会計の邪魔にならないようにレジに置いた。

「お客さんも来てないみたいだから一息ついたら? 今日は創立記念日なのにお疲れさまだね」

相も変わらず笑いはしないが、別に愛想がないわけでない表情。

「あ、ありがとう」

恵理はついつい礼を言ってしまった。

言ってから気がついたが創立記念日なのに働いてるのは彼のせいなので、お茶くらいで感謝することはないのだが。

「それじゃ僕は家に帰るんで後はよろしく」

そう立ち去りかけるじぇんとるを恵理は引き止めた。

「待って」

振り返った彼は恵理の目を見て、何か感じるものがあったのか黙ってレジの中に入ってきた。

畳んで壁に持たれかけさせていたパイプ椅子を広げると恵理の椅子の隣に並べる。

それに彼は静かに座った。

「何か話があるみたいだな」

察しがいい、話が早い。

恵理は単刀直入に尋ねることにした。

「あなた、二股かけてるでしょう?」

彼の片眉がぴくりと上がった。

「見たわよ。さっき女の子と歩いているのを。彩さんっていう素敵な彼女がいるのに」

恵理の言葉を聞いてじぇんとるは眉間を指で抑えた。

頭痛を堪えているかのような仕草だった。

「そう言われても仕方ないのはわかってるさ」

でも、と彼は眉間を抑え少し伏し目がちなまま続けた。

「別に二股なんかかけていない。何しろ彩さんともさっきの娘とも付き合ってないから、な」

「へ?」

それを聞いて恵理は少し目を丸くした。

さっきの娘はともかく……。

「彩さんと付き合ってるんじゃないの?」

言外に付き合っているようにしか見えない、という意味を込めて彼女はじぇんとるに訊いた。

「そうとも。ただの仲の良い幼馴染。そしてさっきの娘はただの仲の良いクラスメート」

何だか疲れたような様子のじぇんとる。

「そ、そうだったの」

勘違いだったのか。

恵理は恥ずかしくなって顔を赤くした。

でも。

「私が言うことじゃないのは解ってるけど。彩さんはあなたのことをただの仲の良い幼馴染以上に思っている。
あなたは女の子に人気がありそうだから言っておくわ。彼女の気持ちも考えてあげてね」

顔を上げ、恵理の言葉を黙って聞いていたじぇんとる。

彼は眉に皺を寄せ、何かに耐えるような顔で呟いた。

「分かってる。彩さんが僕のことを好きだなんてことは」

「分かってるなら気持ちに答えてあげて……」

「それは無理だ」

恵理の言葉を遮り、彼は言い切った。

「彩さんは僕を好きかもしれないが、僕は好きじゃない。だから無理だ」

そして顔をしかめながら続ける。

「さらに言うならさっきの娘はどうやら僕に惚れてくれているらしい。でも僕は好きじゃない。
もし告白でもしに来たら二人とも迷うことなく断るとも。でも告白にも来ないんならどうしようもないじゃないか」

恵理はこんなに長く喋る彼を初めて見るので驚かせながらも黙って話を聞いていた。

「こういうことばかりなんだ。困った誰かを見かける。励ますために微笑んでやる。それが女の子ならほとんどが僕に惚れてくれる。
無理もないかもしれない。弱ったところに異性に支えられればそういう感情も抱くのかもしれない」

でも、と彼は一度言葉を切った。

「きっとそれは勘違いだと思うんだ。刷り込みみたいなものだと思うんだ。だから僕はいつも素っ気無くならない程度には相手はする。
でも余計に踏み込まないように気をつけている。そうすれば、ほとんどの娘はそのうち諦めてくれる」

今までに何度も何度も経験している様子だった。

「もちろん僕だって男だ。女の子に言い寄られて悪い気がしないわけがない。好意を抱かないわけがないさ。
だからって、好意程度の感情で女の子と付き合えるわけがないじゃないか」

最期の方は吐き捨てるように言い切ったじぇんとるを恵理はぽかんとした表情で見ていた。

それに気付いた彼はこほんと咳払いをする。

「……少し話しすぎたみたいだね」

「あなたって……」

思ってたよりずっと。

「不器用な人なのね」

もっと何事も悩むことなく冷静に対処しているのかと思っていた恵理は彼に急に親しみを感じた。

彼もずっと悩んでいるようだ。

「器用に生きられてたら」

彼はため息をひとつ吐いた。

「じぇんとる、だなんて呼ばれてないさ」

ますます親しみを感じてしまう恵理。

思わず微笑みながら彼を見つめていると、彼は少し居心地悪そうだった。

自分の弱いところを見せてしまうなんてことは彼には珍しいのかもしれない。

「あぁそうそう。不器用ついでに」

じぇんとるはポケットから封筒を取り出した。

「一ヶ月お疲れ様」

言って恵理に手渡した。

「これって……」

まさか、と思いつつも封筒を開けると現金が入っていた。

しかも結構な額だ。

バイト代、だ。

「え? ……お給料はあなたが持っていくんじゃなかったの?」

「僕は女の子にそんな酷いことが出来るほど器用じゃないんだ」

飄々とした様子のじぇんとる。

「労働の喜びとお金の大切さ、というのが十分分かっただろ? これに懲りたら二度と万引きなんかやるんじゃないよ」

微笑みはしていないが、先ほどと比べて眉が緩んでいるような気がする。

恵理は込み上げてくるもので胸が詰まりそうだった。

「あなたって……。器用じゃないけど意地悪ね」

憎まれ口を叩いてやる。

悔しいけど、感謝の気持ちでいっぱいだ。

「あとバイトももう辞めていいよ。進学校なのに今まで大変だっただろ」

掌を返したように優しくしてくるじぇんとる。

ちょっと、いやかなり悔しい。

このまま彼の掌の上で踊らされたまま別れたくない。

だから彼女はこう言ってやった。

「あら、私このお店を辞めるつもりはないわよ。そりゃ今までほど働くつもりはないけど、良い気分転換になるもの。
それに辞められるとあなたも困るでしょ?」

仕事に慣れてから分かったが、この店は結構な人手不足のようでレジに立てるのは恵理かじぇんとるくらいしかいないのだ。

店長では顔が怖すぎてお客が逃げてしまうからだ。

じぇんとるもそれを分かっているので、降参するように両手を軽く上げた。

「正直助かる」

恵理は少しだけすっとした。

そしてふと思いついたことを実行してみたくなった。

別に彼に惚れたわけではないけれど……。

恵理はじぇんとるの顔に手を伸ばし、眼鏡を取り上げた。

「何を……」

言いかける彼の唇に自分の唇を押し付けた。

目を丸くするじぇんとると目が合った。

悪戯っぽく瞳で微笑んでやる。

それも一瞬のことで彼女はすぐ唇を離し、椅子に座りなおした。

「お礼と仕返しを兼ねて。ファーストキスだったんだから感謝してちょうだいね?」

我ながらかなり大胆なことをしてしまった。

少し頬を染めながら彼の手に奪った眼鏡を押し込む。

彼は空いた手で自分の唇を抑えて呆然としていた。

眼鏡を外した彼は意外と鋭い目付きだったが、それよりも顔が真っ赤になっていることに恵理は驚いた。

「僕も……初めてだったん……だけど、な」

「ええ!! そんな百戦錬磨って顔してるのに!?」

それは君の勝手なイメージだろ、とじぇんとるは蚊の鳴くような声で言った。

彼はかなり狼狽しているようだ。

「う……こんな動揺するとは自分でも……驚き……というか何と言うか……」

顔を抑えて火照りを冷まそうとしているようだが、完全に耳まで赤くなっている。

それを見ているうちに恵理まで恥ずかしくなってきた。

顔が紅潮してくるのが分かる。

というか顔が熱い。

恥ずかしくて堪らない。

この場にはもういられない。

恵理は封筒片手に慌てて立ち上がった。

「お、お給料鞄に直してくるわね。あなたもそろそろ帰ったほうがいいんじゃない? 彩さんが待ってるわよ」

「そ、そうだね」

じぇんとるもいそいそと帰り支度を始める。

恵理は店の奥に入る前にちらと入り口の方を見た。

店を出ようとしている彼の背中が見える。

何となく眺めてしまっていると急に彼が振り向いた。

まだ少し顔を赤くしたまま彼は恵理に向かって言った。

「そう言えば名前を教えるの忘れてた。僕の名前は吉野豊」

彼は恵理とは目を合わせようとしないで続けた。

「改めてよろしく。佐藤さん」

恵理も顔を赤くして、やっぱり目は合わせられないまま微笑んだ。

「改めてよろしく。吉野くん」



もどるTOPへすすむ