ここは家庭科室。

今日は調理実習の日で、女子たちがクッキー作りに励んでいた。
友人同士で喋りながら気楽に作っている者がほとんどであったが、一人だけ雰囲気の違う少女がいた。
向井由美である。
誰の手も借りず、一心不乱に作っていた。
あまり手際は良くないようであったが一生懸命に作っている。
終了のチャイムがなる間際には何とか完成した。
「……よし!」
出来上がりの品を見て満足気に由美は頷く。 「これをじぇんとるに……ふふっ」
口の中で小さく呟き微かに微笑む由美を、周りの女子たちは鼻を摘んで遠巻きに眺めていた。




「じぇんとる生きてるかー」

坂井利之は椅子に座ってぐったりしている吉野豊の頭をぺちぺちと叩く。

最近は利之まで豊のことをじぇんとると呼ぶようになっている。

豊は閉じていた目を少しだけ開けて小さな声で答えた。

「なんとか」

そして再び目蓋を閉じる。

顔が少し青ざめていた。

「死にそうだなオイ。確かにあのマラソンは辛かったがなぁ」

利之は煙草なんか吸ってるからだぞ、と小声で言って笑う。

豊はそれにはもう答えずに体力回復に専念していた。

そんな時。

がやがやと賑やかな話し声が聞こえてきた。

調理実習から女子たちが戻ってきたらしい。

その手にはクッキーの包まれた子袋を持っている。

教室に入ってくるなり友人同士でクッキーの交換をし合う光景を見て、利之は鼻を鳴らした。

「俺らはマラソンやってたというのに。女子は優雅なもんだな」

豊はそうだね、と小さく呟くのみだ。

「じぇんとーる」

そんな二人の下に由美が小走りに駆けてきた。

やはりその手には子袋を持っている。

由美は利之には目もくれずに豊の正面に立った。

豊がおっくうそうな仕草で目を開けると、由美は少し照れくさそうに子袋を差し出した。

「これ調理実習で作ったんだけど。良かったら食べない? マラソンやってお腹空いたでしょ」

それを言ったら利之も空いているはずなのだが、彼にはあげる気はないようだ。

しかし利之は気にする様子もなく、二人をにやにやしながら眺めている。

豊は見るからに指一本動かすのも大儀そうな状態で食欲などありそうもないが、小さく頷いた。

「そうだね。頂こうかな」

彼はじぇんとる。

人の好意を無駄にしない男である。

「そう? じゃあどうぞ」

由美は嬉しそうに子袋を広げた。

クッキーの香り、というか臭いが教室に広がる。

女子は出たな、と言いたげな表情で鼻を摘み男子は何事かわからず不思議そうに鼻を押さえた。

原因は由美のクッキーである。

見た目はまともなのだが、何とも言えない匂いを放っていた。

いや、何とも言えないというより明らかに異臭である。

利之はそそくさと場を離れた。

至近距離で匂いを嗅いでしまった彼は気持ち悪そうに口元を抑えていた。

由美はにこにことクッキーを差し出している。

本人は作っている段階で鼻がやられてわからないのかもしれない。

クラスメートたちは豊こと頼れる男、じぇんとるの身を案じた。

中には腕を組んで祈るような仕草をしている者までいる。

彼の人望は厚いのである。

しかし豊は戸惑う様子も見せずにクッキーを摘み、口に運んだ。

息を呑むクラスメートたち。

ゆっくりと咀嚼し、豊は呟いた。
「美味しくないね」

「えー」

とても残念そうな顔をする由美を気にせず、豊は次のクッキーを口に運ぶ。

それを飲み込むとまた次のクッキー。

どんどんと食べていく。

一瞬落ち込んでいた由美はそれを見て嬉しそうに笑った。

「なーんだ。じぇんとるったら美味しくないとか言いながらパクパク食べてるじゃない」

意地っ張りなんだから、と豊の頭を突付く。

彼はそれには反応せずに黙々とクッキーを食べ終わった。

「ごちそうさまでした」

見事食べ終わり、由美に向かって手を合わせる豊。

由美は満足そうに豊の頭をなでる。

「美味しかったでしょ?」

「いや美味しくない」

即答する豊に由美は頬を膨らます。

「もー。素直じゃないんだから」

しかし次の瞬間笑顔になる。

「でも全部食べてくれてありがとっ」

それじゃあトイレでも行ってこようっと、とスキップ気味に教室を出て行った。

由美の姿が完全に見えなくなると豊は突然その場に崩れ落ちた。

「じぇ、じぇんとるー!?」

利之やその他のクラスメートたちが床に倒れこんだ豊に駆け寄った。

「お前って奴は……!」

「じぇんとる君……感動したわ」

「お前は男だ!……漢だよ!」

豊は青ざめるどころか青白い顔になってきている。

指先が震えているのも心配だ。

クラスメートたちは偉人でも扱うように丁重に彼を介抱するのであった。







次の日。



豊は学校を休んだ。

じぇんとるのお見舞いに行こうかな。何か作って。

由美がそう呟くのを聞いた周りの女子たちは必死に止めた。






そしてその次の日の昼休み。


今日は何とか学校にやってこれた豊の机の周りにはいつもの顔ぶれが揃っていた。

由美と利之、そして少し離れたクラスの金井亜美である。

最近は亜美もここで一緒に昼食を食べるようになったのだ。

亜美はもう以前のように変に照れる様子もなく、自然に利之と話している。

「いやー亜美の作る弁当は美味いなぁ」

元気よく弁当を食べる利之を亜美は幸せそうに見つめている。

弁当も作って持ってくるようになったようだ。

いちゃつくなら二人でどっか行けよ、とは由美は思わずに純粋に羨ましいと憧れていた。

相変わらず話しかけられないうちは黙っている豊をちらと見る。

母親が作っているのであろう弁当をつついている。

見るからに美味しそうな弁当なので自分が作ってきてあげようかとはちょっと言えそうもない。

やっぱり自分はお菓子作りだと思った由美は持ってきたお菓子作りのレシピ本を鞄から取り出す。

それを見た豊は少しだけ眉をひそめた。

弁当をぱくつきながら熱心に読んでいると、豊が由美に話しかけてきた。

「あのさ、向井さん」

由美は自分の耳を疑った。

じぇんとるから話しかけてくるなんて珍しい。

こないだのクッキーの効果ありか、と喜びながら顔をあげる。

「何? じぇんとる」

「今日の放課後うちに来ない?」

「行く!」

即答してから由美は豊の言葉を反芻し、顔を赤らめた。

じぇんとるったら積極的……! いきなり家に誘うなんて。

あのクッキーにそこまで効果があったなんて。

火照った頬を抑えていると、豊は利之と亜美にも声をかけた。

「二人もどう?」

「おお。じぇんとるから誘ってくるなんて珍しいな。いくいく」

「私もじぇんとる君のうち見てみたいかも」

快諾する二人を由美は恨めしげに見つめる。

その視線に気づいた亜美は由美に顔を近づかせて小声で謝る。

「ごめんごめん。でもじぇんとる君の家ってどんなのか見てみたいじゃない?」

そういって亜美は笑う。

この娘も変わったな、と由美は軽く睨んでやりながら思った。

何があったのかは由美には分からないが、最近少し明るくなってきている。

まぁそれはともかく別にあたしだけを誘ってくれるわけじゃないのね。

由美は豊に見えないように大きくため息を吐いた。

「やっぱり友達なのか……」







「ここがじぇんとるの部屋なのねー」

由香は豊の部屋にやってきていた。

利之は居残りテストがあり、亜美はその付き添いで少し遅れるとのこと。

物珍しげに部屋を見渡すと、本棚がたくさんあってほとんどが雑誌類で埋められていた。

女性週刊誌からファッション誌、他にも良く分からないジャンルの雑誌まで色々だ。

趣味の幅が広いのか雑誌を読むこと自体が趣味なのかは由美には分からなかった。

豊が無言で差し出してきたクッションに座り、向かい合う二人。

由美は二人きりなので少し緊張してしまう。

しかも両親は夜まで留守らしい。

これで利之たちが来るのでなければ由美は舞い上がるどころでは済まなかったであろう。

「それで今日は何で呼んでくれたの?」

豊は壁の時計をちらりと見る。

「もう少し待って。すぐ来るだろうから」

「来るって亜美たちのこと? あの二人ならまだかかるんじゃないかしら」

小首を傾げる由美に豊はゆっくりと横に首を振る。

「そうじゃなくて……」

豊が何か言いかけたとき、部屋のドアが勢いよく開けられた。

「ゆー兄ちゃーん!準備万端!後は焼くだけだよっ!」

エプロンをつけた少女が輝かんばかりの笑顔で部屋に飛び込んできた。

「彩さん、だからノックぐらいはしようよ」

大して迷惑そうでもない顔で言う豊に彩と呼ばれた少女は手をひらひらとさせる。

「えへへ、あたしとゆー兄ちゃんの仲じゃない」

「まぁね」

特に否定はしない豊。

由美は突然の見知らぬ少女の登場に呆気にとられていた。

彩は豊の顔を見て笑っていたが、ふと由美の方を向いた。

驚いたように目を丸くしている。

どうやら今初めて由香の存在に気付いたようだった。

「誰この人? ……まさかっ。ゆー兄ちゃんのカノジョ?!」

愕然とした表情になる彩。

由香はその言葉に嬉し恥ずかしと赤面する。

「あ、あはは。そう見える?」

「この人は向井さんで僕のクラスメート……」

豊は淡々と由美を紹介しようとするが、しかし彩の反応は大きかった。

由美の言葉を聞いて一瞬硬直したかと思うと、大きな瞳いっぱいに涙を溜め始めた。

「え? ちょっ。……ええ?」

予想外の反応に由美は焦る。

豊も腰を浮かし始めていた。

彩はくるりと踵を返すと部屋から出て行こうとする。

その手首を豊が掴んだ。

「離してよ!ゆー兄ちゃんのカノジョを紹介されるなんてやだ!」

振り払おうと暴れる彩の肩に器用に手を回し、そっと抱き寄せる。

二人の身体が密着する形になって彩は赤くなって大人しくなった。

その光景を由美は呆然と眺めている。

彩を抱き寄せながら豊は平然とした声で言った。

「向井さんは友達」

彩は一瞬考え込むような表情になったが、すぐに納得がいったようで笑顔になった。

「なーんだ」

豊はそっと身を離して由美の正面に戻って腰を下ろす。

彩はその隣に当たり前のように腰を下ろした。

由美は二人の間の距離が妙に近いんじゃないかと思った。

「お騒がせしました。あたしの勘違いだったみたいで。いやはやお恥ずかしい」

たはは、と笑う彩は続けていった。

「ゆー兄ちゃんが苗字で呼んでる時点で友達ってのは確実よね。あたしってば」

こつんと自分の頭を叩く彩を見て、由美は何だかコイツが気に喰わないと感じ始めていた。

豊はこほんと一つ咳払いをした。

「じゃ。改めて紹介するけどこちらは向井さん。僕のクラスメート」

実に簡単な紹介だった。

「……よろしく」

もう少し何か言ってくれてもいいのに、と不満に思いながらも軽く会釈する由美。

「で、こちらが彩さん。僕の妹分」

「よろしくー」

元気よく手をあげる彩。

由美は豊に尋ねる。

「妹分って? 妹じゃないの?」

「幼馴染ってのでね。小さいときから仲良くしてるんだよ」

「妹じゃないの。妹分なの」

そこんとこよろしく、と彩は指を立てる。

彩は豊にしな垂れかかるようにもたれた。

「小さいときから二人はいつも一緒だもんねー? ゆー兄ちゃん」

何だか由美を挑発するような目つきである。

「へぇ」

思わず睨み返す。

あたりに火花が散ったような気は豊は特に感じないようで、やんわりと返事を返す。

「いや、そこまで一緒でもないだろ。特に最近は僕もバイト忙しいし」

「ゆー兄ちゃんノリ悪いよー」

と、その時チャイムが鳴った。

利之たちが来たらしい。

泣き真似をしていた彩を豊は引き剥がし、部屋を出て行った。

残される由美と彩。

何となく睨みあう二人。

彩は由美の豊への気持ちは既に見抜いている様子だ。

突然彩は胸を反らすと、自慢げに言った。

「あたしはね。26歳まであたしが独身でお互い恋人もいなかったら結婚してもらう約束してるの」

由美は鼻で笑った。

「どうせ小さな子供のときの約束でしょ」

「ぎく」

わざわざ口に出して動揺する彩。

由美はそのまま畳み掛ける。

「それに恋人がいなかったら、でしょ? じぇんとるモテるから彼女くらい出来てるんじゃないかしら」

「じゃああたしが彼女になればいいのよっ」
「む」

再び睨みあう二人。

そこに話題の主の豊が利之と亜美を連れて戻ってきた。

「よーう」

「お邪魔しまーす」

豊が戻ってきたので二人は睨みあうのをやめて、さりげなく彼の隣に陣取る。

二人に挟まれている豊はその状態に疑問は抱かないのか別にそれにたいして反応は見せない。

淡々と彩を利之たちに紹介する。

こちらは裏の無い笑顔で紹介が無事終わると、豊はぽんと膝を叩いた。

「さて。彩さん。そろそろ焼き始めてくれ」

「うん分かった。皆さん出来上がりまで。しばしお待ちをー」

エプロンの紐を締めなおしながら出て行く彩の背中を皆で見送る。

利之は不思議そうに豊に訊いた。

「焼くのって何のことだ?」

「本日は皆様に美味しいクッキーというものを味わって頂きたくお呼びしました」

ふざけているのか妙に丁寧な口調の豊。

「じゃあ彩ちゃんは今クッキー焼いてるんだ」

察しの良い亜美に豊は満足げに頷く。

「へぇ。そりゃ楽しみだな」

「ふーん……」

由美は少し不満そうな様子だ。

「クッキーならあたしが作ってあげるのに」

豊は黙って目をそらした。






皆で他愛の無い話をしながら待っていると、良い匂いが漂ってきた。

焼きあがったようだ。

聞こえてくる足音に豊は立ち上がってドアを開ける。

丁度クッキーを運んできてた彩がそこに立っていた。

「皆さんお待たせしましたん。どうぞ召し上がれー」

彩はクッキーを乗せたお盆を部屋のカーペットの上に置いた。

形といい色合いといい、見るからに美味しそうだ。

さっそく利之が飛びついた。

「いっただっきまーす」

かぶりついて目を丸くする。

「う、うまっ!こりゃ美味いぞ」

「じゃあ私も」

利之がぱくぱく食べる様子を見て亜美も手を伸ばす。

一口食べて口に手を当てて驚く。

「ほんと!凄い美味しー」

豊も食べ始めていて満足そうな顔をしている。

いつもより少しだけ緩んだ表情をしていた。

由美は一人まだ口にせずにクッキーを手に取り睨むように見つめている。

彩はそんな由美に自信たっぷり声をかける。

「どうぞ?」

むぅ、と由美は唸る。

「たしかに匂いは美味しそうだけど見た目だけならあたしの作るのと同じくらいね」

「あなたもお菓子作るの?」

意外そうな顔の彩に由美は頷く。

「ええ。お菓子とか作るのは結構好き。……ん? じぇんとる何? あたしの顔に何かついてる?」

何故かこちらを見ていた豊に由美は不思議そうに尋ねるが彼は別に、と呟きクッキーをかじった。

「それより早く食べてみてよ」

「わかってるわよ」

急かす彩に手を払うように振ってやりながらもクッキーをほお張る。

瞬間、口の中に広がる味と香り。

由美は正直に思った。

負けた、と。

「く、悔しいけど美味しー」

少し涙目になりながら次々とクッキーを食べる由美に彩は勝ち誇って笑った。

「あっはっは。ゆー兄ちゃんにお菓子作るのはあたしだけでいいのよーだ」

お弁当だって作ったげてるんだから、と胸を反らす。
「くぅぅ」

あのお弁当を作ってるのもこの娘だったなんて……!

由美は敗北感に打ちひしがれる。

間に挟まれている豊はあくまで無反応だったが、由美にむかって優しく言った。

「気にすることないよ向井さん。人間誰しも向き不向きがあるからね」

不向きなものは仕方ないよ、と繰り返す豊。

「料理なんか出来なくても向井さんは良い人だよ」

「じぇんとる……ありがとう」

豊の優しい言葉に由美は瞳を潤ませる。

そして固く拳を固めた。

「でもあたし頑張る!お菓子作るの好きだし!努力すればこの娘よりも美味しく作れるはず」

彼はそんな由美から視線は外して頷いた。

「……そう」

その表情は暗い。

「それは聞き捨てならないなー。あたしだって頑張ってるから追いつかれるわけないもん」

口を尖らして彩は突っかかる。

それに由美は言い返し、言い争いがまた始まる。

豊はその間からさりげなく抜け出すのであった。







後日。


「じぇんとーる」

登校してきた豊が机に鞄を置くなり、由美が駆け寄ってきた。

豊が由美を見ると綺麗にラッピングされた子袋を持っている。

ラッピングのセンスは良いらしく、そんじょそこらで売っているものよりも綺麗である。

しかし放たれる異臭はいかんともし難かった。

「また作ってきたの。食べてくれない?」

由美は少し頬を赤らめている。

豊は子袋に手を伸ばしかけたが、途中で止める。

そしてそのまま両手を上に上げた。

「それだけは勘弁してください」

苦りきった表情だった。



もどるTOPへすすむ