「会うのは今日で最後にしましょう」
久々に会った恋人の三沢加代子にそう告げられ、後藤太助は一瞬何を言われたか分からなかった。
呆然とする太助を尻目に、加代子は窓の外を眺めながら話を続けている。
「もうグダグダと悩むのは止めるの。そろそろしっかり前を見て生きていかなきゃね」
その瞳は希望とやる気に満ち溢れており、力強い。
「それは良いことだと思うけど……」
事情がまるでわからない太助は金魚のように口をぱくぱくとさせている。
「……それと俺と会うのを止めるってことに何の関係が?」
「やっぱり男遊びは良くないからね? 真面目になるの、私は」
遊びとは何のことだ、と太助は疑問に思うが、それを訊ねる隙もなく加代子は続けた。
「太助くん。あなたには随分と甘えさせてもらったわ」
真っ直ぐな瞳を太助に向ける。
「でもそれももう終わり。私は歩き出すわ」
そして戸惑う太助の手をとって。
「元気をありがとう。太助くん」
一度固く握り締めると。
「さようなら」
にっこりと微笑み、別れの言葉を告げた。
数日後、太助は屋上の上で一人佇んでいた。
その瞳は死んだ魚のように、暗い。
彼は酷く傷ついていた。
加代子と初めて会った時のことを思い出す。
最初の出会いは太助からのナンパであった。
同じサッカー部員にして友人である奈良祐樹に焚き付けられ、駄目元で声をかけたのだ。
制服姿の少年が、スーツに身を固めた成人女性に声をかける。
やや無理のある誘いに、加代子はすんなり乗ってきた。
そして、あれよあれよと言う間に深い仲となった。
今まで部活にばかり打ち込んでいた太助には、大人のオンナである加代子はあまりに魅力的であり。
身も心も完全に彼女に溺れていった。
太助がだらしのない男と思われるかもしれないが、これは仕方のない話であろう。
加代子は、頻繁な太助からの誘いに可能な限り付き合ってくれていたし。
太助も太助で、加代子から呼び出された時は、学校をさぼってでも会いに行った。
会いたい時に会えるなんて、何て幸せなんだろう。
年の差なんて関係ない、自分たちはうまくやっていけている。
太助はそう信じて疑っていなかった。
だが、実際は違っていたらしい。
先日の加代子の話から察するに、どうやら太助の一人相撲だったようだ。
出会った頃、彼女は何やら落ち込んでいて、自棄のつもりで太助と付き合いだした、とのこと。
その傷も癒えた今、真面目に生きたいので、会社も辞めて全てを吹っ切りたい、とのこと。
そして、その「全て」の中には、太助も入っているらしい、とのこと。
彼女にとって、太助は傷口を舐めてもらうだけの存在だった。
暗にそう宣言された太助は、どうすればいいのか分からなかった。
自分は本気で付き合っていたつもりだったのに、自棄になった上での遊びだったとは。
空回りにも程がある。
好きだったのに。
加代子がいたから、加代子に釣りあう大人になりたいと思って、何でも頑張ってきたのに。
太助は、暗く乾いた瞳のまま、ほぼ無意識に目の前の柵を越えた。
学校は、大騒ぎになっていた。
昼休みに校庭で遊んでいた生徒がふと顔を上げた時に、屋上で柵を乗り越えて立っている人影を見つけてしまったからだ。
教師達は慌てて屋上に向かい、警察にも連絡して地上には落下した時のためのマットも用意された。
柵の向こうで、ふらふらと身体を揺らしながら立ち尽くしている男子生徒は、そんな騒ぎを気にした様子もなく地上を見つめている。
教師達は彼を説得しようと、先ほどから必死になって声をかけていた。
自殺なんて良くない。
キミがそんなことをすれば親御さんが悲しむ。
命を大切にするんだ。
考え直せ。
要約すると、そのような意味となる言葉を次々と投げかけている。
だが、それらの言葉はまるでその男子生徒……後藤太助の耳には届いていなかった。
ひたすら光の無い視線を、遥か下方の地面に向けている。
ぼんやりとした様子なので、何人かの教師は飛びついて服の端でも掴めないかと様子を窺ってはいるのだが。
太助が一歩でも足を前に踏み出せば、何もかもが間に合わない。
命がかかっているだけに教師たちも無理をするわけにはいかず、嫌な汗をかき続けていた。
そんな中。
どこから入り込んだのか、屋上に男子生徒が一人、ふらりと入り込んできた。
ひどく落ち着いた様子の、眼鏡をかけた少年だ。
そんな彼に気付いた教師の一人は驚いて声をかける。
「じぇんとる……じゃなくて吉野! どうやって入ってきたんだ」
そう。
彼こそは、最近は教師たちからも「じぇんとる」と呼ばれている少年、吉野豊である。
少年離れした落ち着き払った立ち振る舞いから、教師や生徒たちからの人気と信頼は非常に高い。
困ったことがあったらじぇんとるに相談しとけ。
と、そのような扱いを受けている。
しかし、この状況はさすがに一介の男子生徒に任せるには荷が重い。
「吉野。何とかしようとしてくれてるのか? 気持ちは有難いんだが……な?」
そう判断した教師たちは、じぇんとるを屋上から出るように促した。
だが、こんな時でも涼しい顔をしているじぇんとるは、騒ぐ教師たちに向かって、すっと手を軽く上げてみせた。
自分に任せろ、と言いたいらしい。
無表情というか、悠然とした態度のじぇんとるは教師たちの目には、非常に頼もしく見えてしまう。
教師たちは僅かな時間話し合うと、彼に少しだけ任せてみることに決めた。
同学年の生徒からの説得というのも効果的かもしれない、と判断したのだ。
それに地上には既にマットが設置されている。
もし落ちたとしても確実とは言えないが、太助が死んでしまう確立は減っている。
もちろん首から落ちてしまった場合などは、死は免れないが。
最低でも地上のマットを増やす時間を稼ぐ役には立つだろう。
そのような少しばかりの期待の篭った視線を静かに受け止めつつ、じぇんとるは柵に近寄っていった。
「はじめまして。後藤、太助さん」
初対面の取引先の人間に対するような口調で、じぇんとるは太助に声をかける。
事務的とすら言っていい口調に、教師たちには今まで無反応だった太助はゆっくりと身体ごと振り向いた。
緩慢な動作だったが、その大きな動きに周りの人間は肝を冷やす。
「……誰?」
「じぇんとる、なんて呼ばれてるね」
じぇんとるは軽く肩を竦めながら問いに答えた。
「……ああ。聞いたこと、あるな」
相変わらず光のない瞳で、ぼそぼそと太助は喋る。
「俺に、何の、用だよ」
その質問には答えずに、じぇんとるは無言で柵に近寄っていく。
「ふん」
太助はつまらなさそうに鼻をならすと、再び身体を反転させ、柵にもたれかかった。
先ほどまでよりも安定した体勢にはなっているが、まだまだ危ないことには変わりない。
周りの人々は、太助の一挙一動をはらはらしながら見守っていた。
じぇんとるが残り数歩で柵に手が届く、という距離まで近づくと、太助は拳で力強く柵を叩いた。
大きく柵が揺れ、その音で周りの空気が凍りつく。
「それ以上近寄んな。うっとうしい」
じぇんとるはため息を一つ吐くと、その場で足を止めた。
「大体何なんだよ。ごちゃごちゃごちゃごちゃと集まりやがって」
うざったいんだよ、と太助は吐き捨てる。
周りに集まった警官や教師たちのことを言っているらしい。
「後藤太助を心配して集まってくれているんだよ」
淡々とした口調のじぇんとるに、太助は苛立った様子で言葉を返す。
「余計なお世話だっての」
「君にそんなことを言う資格は無いね」
きっぱりと、じぇんとるは言い切った。
「……何だと?」
「今、まさに、後藤太助を、殺そうとしている、君には」
一言一言を太助に刻みつけるかのように。
「何も言う資格は、無い」
「……勘違いしてねぇか」
決して大きな声ではなかったが、力を感じさせるじぇんとるの口調に太助は背を向けたまま声を返す。
「後藤太助は俺のことだし、俺は……まぁ自殺でもしてやろうかと思ってるだけだ」
「違うね」
じぇんとるは悠然と腕を組み、冷たい目で太助を後ろから射抜く。
「君は後藤太助じゃない。後藤太助を殺そうとしている、情けない男だ」
冷然とした視線をひしひしと背中に感じながら、太助は怒鳴り返した。
「うるさいっつってんだろ!」
「失礼」
じぇんとるはふざけているのか真面目なのか、大きく肩を竦めて口を閉じた。
しかし、冷ややかな視線は絶えず送り続けている。
沈黙が辺りに流れる。
それが少し辛くなったのか、太助は身体を動かし、柵に持たれかかる。
元々この屋上の柵は、人の腰くらいの高さしかないものだ。
よって乗り越えるのは容易である。
しかし、屋上には常時鍵が掛けられて人の出入りは出来ないようにしているはずだったので、学校側も低い柵で十分だと考えていたのだった。
閑話休題。
足をぶらぶらとさせながら、ぼんやりと下を見下ろす太助。
沈黙に耐えかねたのか、彼の方から先に口を開いた。
「なぁ……お前は何しに来たんだよ」
「説得しに、だね」
ふん、と太助は鼻を鳴らす。
「お前が俺の何を知ってるって言うんだよ」
「確かに君のことは良く知らないけれど、後藤太助のことなら多少は」
「ああん?」
怪訝な声を漏らす太助。
「後藤太助。二年生。サッカー部所属。現在レギュラーでキーパー」
「……詳しいな」
呆れた声を出す太助のことは気にせず、じぇんとるはつらつらと言葉を重ねていく。
「小学生の低学年の頃から地元のサッカークラブに所属し、それから現在に至るまで基本的にサッカー一筋。高校に進学してから出会った
奈良さんとは良いコンビとなり、二年生になった現在では二人してチームの要となっている。勉強の方は可も無く不可も無く、といったところ。
少々軟派かつテンションの上がりやすい奈良さんのブレーキ役として部内でもクラス内でも重宝されている……」
「……何でそんな詳しいんだよ」
うんざりした声を漏らす太助だが、じぇんとるは気にした様子もない。
「というわけで、後藤太助はなかなか良い感じの人間だと思われる。君はそんな彼を殺すことに良心の呵責は無いのかな」
「さっきから言っている意味がわかんねぇんだけど」
じぇんとるは靴の爪先でとんとんと地面を鳴らしながら、あくまでも静かに言葉を返す。
「後藤太助は奥手なところもあるけれど気の良い男、君はそんな彼を感情のままに屋上から落とそうとしている男」
とんとんと爪先を鳴らし続けるじぇんとる。
「人殺しは良くないね。冷静になるといい」
「あー……」
憤然したものを声に含ませているのを隠そうともしていない。
「うっとしいって言ってんのがわかんねぇのか? 失せろ」
「というかもうはっきり言わせてもらうけど、失恋したくらいで騒がないで欲しいね。さっさと戻ってくるんだ」
あっさりとした口調でじぇんとるは言い切った。
平坦な声が、太助には上の立場から馬鹿にされているように感じられた。
何でそのことを、と思う余裕はなかった。
その言葉に耐え切れず、太助は身体全体で振り向くと、じぇんとるを大声で怒鳴りつけた。
「黙れぇ!! お前に俺の何が……!」
振り向いたその目前に、じぇんとるがいた。
長々と語っていたことや、爪先で音を立てていたことは足音を誤魔化すため。
彼は少しずつ少しずつ距離を詰めていたのだった。
「なっ……」
「うん。後藤さんのことは何も知らない」
きっぱりと言い切ると、じぇんとるは動揺している太助の胸倉を掴み。
そのまま担ぎ込むような格好で、太助を柵の内側に引きずり込んだ。
周りから見ればじぇんとるが太助に背負い投げをしているようにも見える光景だ。
「……ぐぅ!?」
そして勢い余って背中から叩きつけられる太助。
そこにじぇんとるの真意を察して黙っていた教師たちが集まり、太助を押さえつけた。
完全に身動きの出来なくなった太助は、憎々しげにじぇんとるを睨む。
「畜生……」
「自棄になるのは自由だけど、もう少し人に迷惑のかからない方法を選ぶことだね」
涼しい顔で視線を受け止めると、じぇんとるは乱れた服を直し、屋上の出口へと歩いていく。
「き、君っ。助かったよ。ありが……」
「お騒がせしました」
教師がお礼の言葉を投げかけてくるが、足を止めることはせずにそのまま去っていってしまった。
「くそ……くそ……厳しいなぁ……畜生……」
取り残された太助は、溢れる涙を拭おうともせず、さめざめと泣き続けていた。
その瞳には理性の光が戻っており、もう死んだ魚の目はしていない。
ただただ悲しみだけが、彼の瞳の中に溢れていた。
じぇんとるは騒ぎから離れ、校舎裏まで足を運んでいた。
彼が事件を収めたということは早速噂になっており、つい先ほどまで教師やら生徒たちに囲まれて苦労していたのである。
誰もいないことを確認すると、じぇんとるは軽く一息を吐く。
煙草を取り出して火を点けようとし、自分の手が震えていることに気がついた。
じぇんとるはもう一度周りを確認すると。
「はぁぁぁぁー……」
深い、深いため息を全身で吐きながら壁に持たれかかり、ずるずると座り込んでしまった。
「今日は本当に危なかった……」
誰もいないのをいいことに、ぶちぶちと独り言を言い始めた。
「何で自殺しようとする人が現れたからって僕のところに助けを求めに来るんだよ……。先生や警察に任せておこうよ。
面識の無い相手を説得するなんてプロじゃあるまいし……無茶だ……」
震える手で何とか煙草に火を点けると、だらしなく咥え込む。
「しかし死ななくてよかったなぁ……。気持ちはわかるだけに、あそこまで挑発して大丈夫なものかと肝が冷えたよ……」
紫煙をくゆらせているじぇんとるの顔は、良く見ればすっかり青ざめていた。
よっぽど無理をしていたらしい。緊張から開放された直後で、体調すら悪そうである。
「今度からは無理なものは無理と断らないとな……」
誰もいない、寂しい校舎裏で。
じぇんとるは静かに決心を固めるのであった。
しかし、この件をきっかけとしてさらに「じぇんとる」の名が広まり。
だんだんと後戻りの出来ない立場になっていくことは、今の彼には知ることの出来ないことである。
もどる/
TOPへ/
すすむ