しゃかしゃかとヘッドフォンから音が漏れている。
聞こえてくるのは最近流行りの女性歌手の歌うラブソング。
ただひたすらに明るい明るい歌で、恋人ができた喜びを歌い上げているものだ。
まさに今の僕のためにあるような歌。
それを耳にしながら、僕は静かに絵を描いている。
絵、といってもあまりきちんとしているものでもない。
スケッチブックに鉛筆で、目に付いたものを写生しまくっているだけだ。
今日は筆のノリがいい。
僕は鼻歌交じりに鉛筆を動かし続けていた。
「ご機嫌ね」
「センパイ。起きたんですか?」
声をかけられた方に顔を向けると、今までヘッドフォンで音楽を聴きながら目を瞑っていた女生徒。
「寝てないわよ。ずっと起きてたわよ」
「そんなこと言って寝てること多いじゃないですか……」
寝ぼけ眼で僕の言葉を否定するセンパイ……長谷川のどか。
同じ美術部に所属する三年生だけど、毎日部室来るわりにはヘッドフォンを付けて寝ていることが多い。
この部活は来たいときに来たい人が来ればいい、というやる気のないものなのだ。
僕だって最近はあまり足を運んでいなかった。
でも今日はふと絵が描きたくなったのでこうしてここにいる。
「そんなことより。ユーイチくん、最近楽しそうねぇ」
「……わかります?」
「わかるわよ」
ぐっと大きく伸びをしながら、センパイ。
「全身から幸せオーラが出てるもの。妬ましいわぁ」
「幸せ者は幸せ者なりの悩みがあるんですけどねー」
ちょっぴり積極的すぎる僕の恋人、山名さんの顔を思い浮かべながらため息一つ。
今朝も玄関を開けたらそこに彼女がいた。
せめて学校のある町の駅で待ち合わせしようって何度言ってもわかってくれない。
人前であんまりべたべたするのもご遠慮願いたいし。
「贅沢な悩みねぇ」
「ふふふ。嫉妬ですか?」
冗談交じりの一言に、満面の笑顔で返された。
「うん。少し、ね」
声を出さずに目だけで微笑むこのセンパイの笑顔は本当に綺麗だ。
迂闊にもときめいてしまう。
「ていうかユーイチくん。……私のことちょっと好きだったでしょ?」
さらに痛いところを突かれる。
「な、何をおっしゃる」
「無理もないわよねぇ。年頃の男女がこうやってよく二人っきりになったら意識しちゃうと思うわ」
「……」
背中に嫌な汗が流れるのを感じつつ、センパイから目を逸らしてスケッチ再開。
まぁ図星なんだけど。そうなんだけど本人から言われると何だか辛いぞ。
「私もユーイチくんのこと、ちょっと意識してたわよ?」
「え!?」
マジすか! という思いを瞳に込めて振り返った瞬間、その鼻先を指で弾かれた。
「あうっ」
「もし告白されたら一週間くらい悩んだ末にお断りするくらい意識してたかなぁ?」
「お断りするですか! ……もう」
一瞬喜んでしまった自分が恥ずかしい。
「いいじゃない。山名さんだっけ。あんな可愛い彼女いるんだから」
「そりゃそうですけど。からかわないで下さいよー」
「愛いヤツめぇ」
センパイは薄く微笑みながら僕を小突くと、ケータイで時間を確認した。
「あら。もう六時前ね。そろそろ帰りましょ」
「もうそんな時間ですか。じゃあ出ますか」
部室に鍵を掛け、二人並んで校舎を出る。
「あーあ。私も彼氏欲しいわねぇ」
「センパイならすぐ出来ますよ」
「んー……。でも私も人には言えないコンプレックスあるからぁ」
とか何とか雑談しながら歩いていると、校門を出た辺りで突然、誰からに抱きつかれた。
「どーん!」
なんて言いながら体当たりのような抱擁をしてきたのは、僕の恋人こと山名さん。
「部活早く終わったからここで待ってたの。びっくりした?」
「びっくりしたよ。先に帰ってくれてても良かったのに」
ぶー、と頬を膨らませる山名さん。
「一緒に帰ろうよ。そういってユーユーは私が部活終わるの待ってくれないんだから」
「だってソフトボール部って練習終わるの遅いから……」
「愛がなーい」
「この子が噂の山名さんってわけねぇ」
僕らの様子を眺めていたセンパイがぽつりと呟く。
おっと。センパイの存在を軽く忘れてた。
僕は山名さんの肩に手を置いて、センパイに紹介することにする。
「この子が山名めぐみさん。えーと……現在お付き合いさせて頂いてますです」
ちょっと頬が熱い。
改めて口に出すと照れくさいなー。あっはっは。
「どうも。はじめまして」
「どうもどうも」
軽く会釈し合う山名さんとセンパイ。
続いて僕はセンパイの側に立ち、
「で、こちらが長谷川のどかさん。美術部のセンパイで……」
と、そこまで言った僕に、突然センパイが後ろから抱き付いてきた。
「他様々なことのセンパイでもあるの」
「あわわ……」
な、何ということを……!
背中にはかなり心地よく感触が伝わってくるけども、彼女の前では止めて頂きたいというか……。
「山名さんのことは聞いてるわよぉ。……彼、優しいでしょお?」
物凄く誤解を招きそうな発言をするセンパイ。
「ちょ、止めて下さいよ! 山名さん、これは違うからね!」
乱暴に振り払うこともできない僕に、声もなく目を細めて微笑むセンパイ。
やめてーとろけるー。
ぽかんとした顔で僕らを見ていた山名さんだけど、ふと顔に笑顔を浮かべた。
あ、冗談だとわかってくれたのかな。
ほっとため息。
「あぅっ!?」
……を吐いた僕の顔の隣にあったセンパイの顔が吹っ飛ばされた。
目の前には、笑顔のまま拳を振り切った山名さんがいる。
山名さん……センパイを……ぶん殴った?
しかも拳で?
硬直する僕を尻目に、鼻を抑えて地面にへたり込んだセンパイに山名さんは蹴りをかます。
「いたっ、いたいっ!」
しかも一回で終わらず何度も何度も。
頭を抱えて丸くなり、悲鳴をあげているセンパイを見てようやく我に返った。
「や、山名さん! 何やってんの!?」
繰り返し蹴り続ける山名さんを後ろから羽交い絞めにして、センパイから引き剥がす。
「離して! この女……よくも! よくもユーユーに!!」
「冗談だから! あれはセンパイの冗談だから!」
完全にぷっつんしている山名さんを必死になだめにかかる。
こ、ここまで怒るとはセンパイも予想外だっただろう。
「冗談……!?」
血走った目で振り返る。蹴りは止めてくれたけど、興奮しているのか息が荒い。
怖いよ……。
「そう。センパイお茶目だから。悪ふざけしただけ」
「……うう」
よろよろとセンパイが立ち上がり、ハンカチで鼻を抑えていた。
そのハンカチが血で汚れている。どうも鼻血が出てしまったらしい。
「あああ。センパイ、大丈夫ですか!?」
「ど、どうやら私はとんだ地雷を踏んでしまったようねぇ……」
完全に逃げ腰になりつつ、センパイは上目遣いに山名さんを見る。
「悪ふざけが過ぎたわぁ、ごめんなさい。冗談でも人の彼氏にちょっかいかけたらどうなるか身をもって知ったわぁ」
言いつつ、ぺこりと頭を下げるセンパイ。
顔面殴られて蹴られて上に、頭も下げなきゃならないなんてセンパイ可哀相すぎる……。
その様子を見て、山名さんも少し落ち着きを見せ始めた。
はぁはぁと息を切らせてセンパイを睨んでいた山名さんの表情に理性が戻ってきた模様。
「……こ、興奮しちゃって……ごめんなさい! 私ったら何て酷いことを……」
慌てて深々と頭を下げる。
「いいのよぉ……。私が悪かったわぁ」
服についた埃を払うと、そそくさとセンパイは僕たちから離れていく。
「お邪魔しちゃって本当にごめんなさいねぇ。……それじゃあ私はこれで」
そのまま逃げるように……いや。文字通りの意味でセンパイは逃げ帰っていってしまった。
あああ……明日部室で謝っとこう。
心の中でセンパイに平謝りしつつ、僕は山名さんに向き直る。
「山名さん! 何もあそこまでやらなくてもいいじゃないか!」
「……だって」
むつ向き加減に唇を尖らせ、山名さんは拗ねたように呟く。
「許せなかったんだもん。他の女がユーユーに抱きついてるのなんて」
言葉だけならすっごい可愛いこと言ってくれてるんだけど……。
「だからって殴った上に蹴り回さなくても……」
「私は!」
きっと鋭い目線で睨みつけられた。
それがまた恐ろしくきつい眼光なものだから、思わず僕は気圧される。
「私はいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも我慢してるんだよ!?
ホントはユーユーがクラスの女子と話すのも嫌なの!
冗談言って肩を叩かれたりしてるの見ると気持ち悪くて吐き気がするわ!
ユーユーには他の女となんか話さないで欲しいの。他の女なんか触らないで欲しいの。
他の女なんか見ないで欲しい、の!」
そこまで一気にまくし立てると、はぁはぁと荒い息を吐く山名さん。
そして底冷えのするような眼光を宿らせ、僕にはたと瞳を向ける。
「私にはユーユーだけなの……」
そっと僕に身を寄せ、背中に手を回してきた。
心地よい感触のはずなのに、今は何故か食虫植物にでも絡みとられたかのような気持ちになる。
「だから、ユーユーも私だけのものになって?」
僕は、その言葉に答えることができなかった。
できるものなら即答してあげたいものだけど、どうしても首を縦に振ることが出来なかったんだ。
だから、誤魔化すわけでじゃないけれど、代わりに気持ちだけでも伝えておくことにする。
「山名さん……」
不安そうに僕を見上げる彼女の背中に手を回し、そっと呟くように言った。
「好きだよ」
「私も」
蕩けた表情を浮かべ、山名さんは僕の心を犯すような甘い甘い声で。
「――愛してる」
……重い、なぁ。
続く
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