日もしっかりと暮れた見知らぬ街で、駅前にあった飲食店の一角を陣取って、従妹と俺といいんちょは夕食を摂ることにした。
 あの後、しばらく泣き崩れ、落ち着いてからも少し情緒不安定ぎみな女の子に、いいんちょと従妹は根気良く付き合い、話を聞き、何かを言っていた。
 俺は他人の話を盗み聞きするのはよろしくないと思い、適当に巻いたハンカチを縛り直したり早く血ぃ止まらねぇかなーと途方に暮れてみたりそういえばあの蹴り倒された二人はと思ったらいつのまにか乱入少年とともに消えてたり何でこの子だけ残ったんだろうと発端の男の子をじーっと眺めてみたりしていた。
 三〜四時間ほど掛けて話を終えて、やっと帰路に着いたところだ。
 しかし、帰るまで腹具合が保たないと判断したので猛牛のごとくファミレスに突っ込んだ次第だ。
 刃を止めた手の平は病院行きを訴える従妹といいんちょをなんとか説得し、妥協案として近くの薬局で消毒液とガーゼと包帯を買って応急処置。
 剃刀という、薄く鋭い刃物は叩きつけるような使い方を想定されていない。傷は鋭くとも深くはなかった。
「ふぅ……なんだか、大変だったわねー……ってダイエット二日目のオバサンみたいにがっついてないで相槌くらい打ってよ!」
 失敗してないかそれ?
 まあそれはさておき、このテの店にしてはなかなかボリュームのあるステーキを食べる手を緩めていいんちょに向き直る。
「っていうか、あんなことの後でよくお肉がっつけるわよね」
 送られてくる呆れた半目の視線に俺は口の中の物を片付けてから答える。
「思ったより血が出たからな。補充してるんだ」
 いいんちょが冷たい視線で何かを言うより早く、隣から声が上がった。
「では従妹よ、こちらのトマトも食べておくと良い。鉄分補給だ」
 横を向くとすでにフォークに突き刺さったトマトが口元に差し出されていた。
 きっちりと手を添えてあり、これは俗に言う。
「あーん」
「待て。ここでやるのか? 衆人環視と友人監視がダブルだぞ従妹よ」
「身体に必要なんだ、従兄よ。それにあんなにたくさん出してしまったし、早い内に補給しておかないと身が保たな――」
「だーっ! 二人して赤い物を選ぶなっ。行動はアレなのに血生臭いわよ!」
「でも、従兄も思ったより出たと言っている。私達も消耗したかもしれないが、一番大変だったのは従兄だろう」
「いや、そうでもないだろ、従妹よ。俺が動いたのは最初だけだからな。後は二人が三時間も四時間も頑張ってくれたおかげだ」
「従兄がそう言ってくれるとは嬉しいな。しかし、やはりあんなに激しく出てしまっては身体の方に影響が――」
「ちょっとくらい出た方が身のためよ。あんなことして、私は心臓が止まるかと思ったわ。頭真っ白になっちゃったわよ」
「まあ、ちょっと無茶したのは認めるが――」
 と、周囲の視線が突き刺さってきているような気がして周りを見渡す。
 おや、何やら男性女性を問わず一斉に目を逸らしてらっしゃる。つか中には敵意やら殺意やらを感じる。
 途中から少し音量が大きくなってしまったとは思うが、そこまで怒らなくてもいいだろうに。
 知らない街だからな、マナーに厳しいのかもしれない。
 取り敢えず会釈をしておくと、主に女性から厳しい視線が返されてしまった。
 俺は大人しく従妹の差し出したトマトを食べ、従妹といいんちょをできるだけ宥めながら食事を済ませた。
 食後のコーヒーを半分ほど飲んだところで、切り出す。
「それで、あの女の子は、どうだった?」
 俺の質問に、いいんちょが憂鬱そうな目をして答えた。
「たぶん、しばらくは大丈夫だと思う。吐き出したいことがあったのに、吐き出せない状況が、あの子にストレスを蓄積していった所為で、情緒不安定になっていったんじゃないかと思う」
 吐き出させてあげたから、しばらくの間は落ち着けると思う。
 そう言って目を伏せ、コーヒーを啜っていいんちょは顔を隠す。
 同情や憐憫は簡単だが、行動が伴わない感情ならただの自己満足だ。だからいいんちょはそれを恥じて隠そうとする。
 表に出そうとしないうえでそれを感じてしまうのだから、いいんちょも難儀な性格をしている。
 従妹もまた、取り繕った表情をしているものの、慣れないその行動と哀しげな目が既に物語ってしまっている。不器用にカップを弄りながら、従妹はこう言った。
「嘘に嘘を重ねて誤魔化し、それを毎日実行しなければいけなくなっていったそうだ。その嘘だけの彼女を見る人はたくさんいたが、嘘を取り払って接することができる人がいない、と……そんなことを言っていた」
 二人とも詳しいことは語らない。
 あの子から直接語られたのは二人であり、そこを俺が言及して聞き出すのはマナー違反だ。
 だから当然、そんなことはしない。
 だが、大体の想像はつく。そうでなければ、俺はあの場面において行動をしていない。
 不自然なまでに多かった、アクセサリーの束。そこに隠された腕に付けられていた、茶色い痕。過剰に派手な格好と振る舞い。しかし、俺が声を掛けた時の怯えるような反応。
 見せびらかそうという馬鹿ならば、それは無価値な虚飾と等しい。無思慮による嗜好であれば、それは介在するべきことではない。
 だが、
「……若いのになぁ。いや、若いから、か?」
 思わず呟き、三人で顔を合わせて溜息が漏れた。
 とはいえ、あの女の子の面倒を最後まで見るということはできない。結局、俺は自己欺瞞のために中途半端なことをしてしまっただけだ。
 非情にはなれず、従妹といいんちょを巻き込みすらして、できたことはただの対症療法。
 もう一度深く、溜め息を吐く。
 一つ、自分を騙すことにしよう。従妹は、いいんちょは、少女の話を最後まで聞き届け、そして聞いていただけ、ではない。
 最後に少しだけ、何かを言っていた。
 何をかは知らない。だが、その言葉には、俯く少女の顔を上げさせるものだったということは確かだ。
 少なくとも、嘘に怯える少女に、この二人の言葉に宿る本心の想いは、伝わっていたのだろう。
「あー……あの男の子の方と、少しだけ話をした」
 重い沈黙が降りていたので、俺は取り敢えず口を開く。
 場を明るくしよう、というわけではない。こうなることを予想しつつも俺は訊いた。そして、従妹もいいんちょも答えたのだ。
 誤魔化すことは必要ない。
 だから、あくまで淡々と事実を言う。
「あの時になんで逃げようとしなかったのか、訊いた。『僕も破綻するような環境ならああなるのかと思ったら、動けなくなりました』……だと」
 過去形でもなければ、未来形でもない。
 不確定だが、可能性のあることだと受け止めているあの男の子の科白に、今思い出しても眉根が寄る。
 彼は覚悟していたのだろうか、少女の嘘も何もかもを見破った上で。
 それとも、諦めを宿しているのだろうか、過去と、未来に。
 しかし、それらを含めた現在で、彼は何を思っているのだろうか?
 らしくもなく思考に沈みそうだったので、頭を振って少年のことを思考から追い出す。これ以上を求めることはできないし、あの少年も、それは望んでいないような気がしたからだ。
 そんな俺に、従妹はふと思い出したかのように訊いてきた。
「従兄よ、それで、あの男の子の名前は何だったんだ?」
 その質問は奇しくも、小さな笑いを誘ってくれるものだった。
「……じぇんとる、だとさ」



「それなら一旦、立ち止まってみよう? あくせく考えてたら信じられないことも、じっくり見据えれば、違うモノが見えてくるかもしれない」
 変わった三人組の内、誰かが、訪れた街の誰かに残した言葉だ。
 傷ついたのなら立ち止まれば良い。心も身体も、癒してからでなければ充分には動けない。

「信じられない? だけど、君の諦観は裏切られたからだろう。信じていた人に、信じたかった人に。……裏切りの経験とは、信頼の証明でもあるだろう?」
 誰かが、誰かに残した言葉だ。
 裏切りでついた傷は、信頼の裏返し。何かを信じたいと思う心を持たない人ならば、傷すらも持てないのだから。

「過去はどうだった? 幸いの過去を持っていないと思っているのか? それは違う。信じるということは幸いなんだ。信じることをただ信じていることがすれ違いを生んでしまうだけだ。だが少なくとも、君は誰かを信じられる。それを幸いとは言えないか?」
 誰かが、誰かに残した言葉。
 過去を過去として切り捨ててはいけないと。裏切りの未来に怯えて信頼の過去を捨てるなと。そこには必ず、幸いがあったのだから、と。

 それから何年も経ってから、その三人の誰かがふと、そう口にしたことを思い出した。