その日、ノボルは新学期早々行われた遠征試合の帰りの電車に乗っていた。
やや遠い学校との試合だったので、もうすっかり遅くなってしまっていた。
ノボルはがらんとした車内の長椅子に腰掛け、部活用のバッグに持たれかかって静かに目を閉じている。
車内のノボルの他は疲れた顔をしたサラリーマンとOLをぽつぽつ見かけるくらいだ。
ちなみにマサキがいれば同じ電車に乗っていたであろうが、夏休みの宿題をやらなかった彼。
水泳部の顧問に特別授業を受けさせられていた。
ということでノボルは一人で家路についているのであった。
区間快速に静かに揺られながらノボルがまどろんでいると、走っていた電車の速度が徐々に下がっていった。
数少ない周りの客は怪訝な顔をし始める。
ノボルは特に気にすることなく座ったままだったが、とうとう電車が止まってしまった。
車内にアナウンスが流れる。
さすがに目を開けて、放送に耳を傾けるノボル。
長々と説明していたが、要するに線路上で人身事故があったために止まらざるをえなくなったということらしい。
周りの客は嫌そうに文句を呟いていたが、ノボルは慌てず騒がず鞄から携帯電話を取り出した。
とりあえず、することはヒカルへの連絡だ。
すぐに繋がった。
「はい、もひもひ?」
実にだるそうな声だった。
長すぎた夏休みの余韻のせいか、ボケ気味なヒカルは毎日無気力な様子なのだ。
「兄さん。ちょっと面倒なことになってな」
「うん?」
「事故で電車が止まってしまった。どうしたもんだろう」
「事故!?」
淡々と話すノボルに電話の向こうのヒカルは驚いた声を上げる。
「どしたの? ノボルに怪我はない?」
「俺の乗ってた電車に何かぶつかったわけじゃないから。ただ変なとこで止まったから帰りは遅くなりそうだ」
良いながらノボルは窓の外を見る。
困ったことに田んぼばかりで、町の明かりもやや遠い。
「そっかー。……うん、危ないからタクシー捕まえて帰ってきなさい。お金は家から出すから」
ノボルも部活で疲れてるし、とヒカルは心配そうに言ってくれた。
「悪いな、ありがとう兄さん。そうさせてもらう」
「気をつけて帰ってくるんだよ」
「わかった。……それじゃ」
ぷちっと電話を切る。
会話が終わるころには、車掌さんが用意してくれた梯子で乗客が降り始めているところだった。
車掌さんに促されてノボルもさっさと車内から脱出することにする。
一時間ばかり待たされた後、鉄道会社の用意したバスの向かえが来た。
それに乗って近くの駅まで行き、そこからタクシーを利用することにする。
乗り込んだタクシーの初老の運転手は実にお喋りだった。
サービス精神の現れなのか、ただ単にそういう性格のか。
とにかく色々と話題をノボルに振ってきた。
「兄ちゃんでっかいねぇ! 何かスポーツやってんのかい?」
「ええまぁ、水泳を少々」
「兄ちゃん男前だし、いい身体してるしモテるでしょー」
「いやまぁ、後輩たちにチヤホヤしてもらえることがあるくらいで。彼女とかは別に」
「こんな時間になってご両親も心配してるんじゃないかい?」
「両親は仕事でいないんで。ただ兄が家で夕飯作って待ってくれてるそうです」
「へぇー、いい兄貴さんだねぇ」
「ええ」
「やっぱ兄貴さんもでかいのかい?」
「女子中学生にしか見えない二十歳です」
「……何ともコメントしにくいなソレは」
「無理もないと思います」
話し掛ければ答えるタイプのノボルと運転手は和やかな雰囲気のまま夜道を走っていた。
しかしそのうち話題も尽きて、ふと車内に沈黙が降りる。
ノボルは別に居心地が悪いと思うこともなく、暗い窓の外をぼんやりと眺める。
だが、運転手の方は若い客を退屈させるまいと思ったか、こんなことを言ってきた。
「そういや兄ちゃん……こんな話を訊いたことはあるかい?」
「何でしょう」
運転手は急に声を落とすと、口元に笑いを浮かべた。
「……出るんだよ、この辺り」
「幽霊……っすか?」
察しが悪い方ではないノボルは運転手の調子に合わせて相槌を打つ。
「ダクシーで夜道を走ってるとな。いつの間にか後部座席に座ってるんだよ。ずぶ濡れの女が」
「はー……」
怪談なんてどれも似たようなもんだな、とは思うがノボルはそんなことは口に出さない。
「で、その女に乗られたタクシーは確実に事故を起こすんだってよ! 大変だな! わははは……は、は」
快活に笑っていた運転手の語尾が急に弱々しいものになってしまった。
不信に思ったノボルは、バックミラーを覗いて運転手の顔を窺ってみる。
鏡に映ったその顔は恐怖に歪んでいた。
後部座席にちらちらと視線をやりながら。
そしてノボルも鏡に映っているものを見て、目を見開いた。
鏡を覗く自分と、その隣に見知らぬ女が乗っていたのだ。
そう、ずぶ濡れの姿で。
ノボルは一旦目を閉じ、座席に深く座り直す。
深呼吸を一回。
隣を見てみる。
そこには髪から水を滴らせている女が座っていた。
拳を膝の上で力なく握り締めていて俯いている。
長い髪のせいで顔は隠れていた。
「……こんばんは」
思わず声をかけてしまうノボル。
女は声に反応してゆっくりと顔を上げてノボルの顔を見る。
目が合った。
見ているノボルが落ち込んでしまいそうな程に虚ろな瞳だった。
そして生気をまったく感じない瞳でもあった。
もう間違いなく幽霊だ。
しばし見詰め合うノボルと幽霊女。
車内にはカチカチと運転手が歯を鳴らしている音だけ響いている。
数十秒か数分か。
ノボルには妙に長く感じられたが、幽霊は目をそらすと再び俯いた。
「えーと……」
いったいどうすればいいのやら。
ノボルは途方に暮れてしまっていた。
幽霊女と相席になった時の間の持たせ方など考えたこともない。
腕を組んでノボルは考え込む。
どうやら、ノボルは気まずいとは思っていても怖いとは思っていない様子だった。
部活で疲れきっているせいか変な余裕が生まれているようだ。
「……待てよ」
似たような経験をしたことがあるような気がする。
初対面。男と女。相手は人見知り。
いや幽霊女が黙っているのは人見知りだからではないとは思うが、とノボルは自分に突っ込む。
もう少しだけ考え込み、ノボルは心の中でぽんと手を打つ。
そうだ、ヒロちゃんが初めて家に来た時の気分に近い感じだ。
あの時もどうしたらいいのか分からなくて困ったもんだったなぁ。
でも今は大丈夫だな。
よく考えたら俺がするべきことは一つだけだ。
ノボルは胸の中で結論を出すと、脇に置いてあったバッグの中身を漁る。
そして中から今日は使わなかった綺麗なタオルを取り出した。
そのタオルを幽霊女に向って差し出す。
「風邪ひきますよ。使ってください」
幽霊女は急に差し出されたタオルに顔を上げてノボルの顔を見る。
さきほどと比べて、虚ろというより驚いた様子を見せていた。
「どうぞ」
ノボルはもう一度タオルを使うように促してみる。
幽霊女はおずおずとタオルを受け取り、じっとそれを見つめる。
ノボルの気のせいかもしれないが、肩を震わせているような気がした。
「……ありがとう」
幽霊女はぽつりと呟いた。
「いえいえ、お気になさらずに」
「こんな幽霊な私に優しくしてくれるなんて……」
顔を上げる幽霊女。
先ほどまでとは違って穏やかな表情になっていた。
憂いは完全には消えてはいないが、だいぶ和らいでいるように見える。
ちょっぴり透けてさえいなければ、幽霊には見えないような雰囲気だ。
「死ぬのはちょっと気が早かったみたいね、世の中いい人もいるわよね」
「事情は知らないですけど、いい人も多いと思います……よ!?」
適当に相槌を打っていたノボルは途中で声を裏返させた。
幽霊女がいきなり身を乗り出してきて、ノボルの頬に軽くキスをしたのだ。
目を丸くしているノボルの顔を見つめながら幽霊女は楽しそうに笑った。
「連れてくのは勘弁してあげるわ。その調子でいい男に育つのよ」
ノボルは幽霊女に瞳を覗き込まれながら、意識が遠のいていくのを感じていた。
ふとノボルが気がつくと、自分の家の前に立っていた。
何故か全身ずぶ濡れになっている上に、非常に身体が冷えていた。
もの凄く寒い。
震えながら腕時計を見てみると、もう深夜の2時になっていた。
いったい自分がどうやってここまで戻ってきたのか。
あの運転手はどうなったのか。
「こ、怖ぇー……」
深く考えると今夜は眠れなくなりそうだ。
ノボルは考えるのを止めて、とりあえず家の中に入ることにする。
とにかく風呂だ風呂。
ドアを開けて玄関に入ると、家の奥からヒカルとヒロミが小走りに駆けてきた。
「ノボル! 何かあったの? どうしてこんな時間に……。それにそんなにずぶ濡れになっちゃって……」
「ノっくん携帯にも出ないから事故にでも遭ったのかと……」
二人とも実に心配そうな顔をしていた。
ずっと起きてノボルの帰りを待っていたらしい。
自分も状況が全く分からないので説明のしようがないノボルは何とも言えなかった。
「いや……心配かけてごめん」
「でもまぁ無事に帰って来たんだから良かったよ、うん。何かずぶ濡れだけど」
ヒカルがうんうん頷いている間に、気を利かしたヒロミはタオルを持ってきた。
そして思い切り背伸びをして、ノボルの肩にかけてやる。
「おう、さんきゅ」
「とにかく早くお風呂入らなきゃね。……って、んん? これって……」
顔が近づいた状態になっているヒロミはノボルの顔を見て、眉をひそめた。
「……おおっ?」
ヒロミの視線の先に気がついたらしいヒカルの方は、楽しげな声を漏らす。
二人の表情の変化の意味が分からず、ノボルが戸惑っているとヒカルが微妙な力加減で脇をつついてきた。
「うわっ。何すんだよ」
「いやーノボルも隅に置けないねぇ。いったい何があったのかなー? もしかしてお楽しみだったのかーなー?」
「……夜更かしして損した。私は寝ます。おやすみです」
一方、ヒロミの方はと言うと、急にぶすっとした顔になってつかつかと歩き去ってしまった。
「……何なんだよ」
「鏡でも見てきたらー?」
にやにやしながらノボルの顔を指差すヒカル。
その態度にようやくヒカルたちの態度の変化の理由に思い当たった。
まさか、とは思いつつも寒さに震えながら洗面所に向かう。
そこで自分の顔を鏡で見る。
ずぶ濡れで、寒さのせいで唇が青くなっていて。
そして頬に青痣のようなキスマークが残っていた。
「うわぁ……」
照れるとか、ヒカルたちの誤解を解かなきゃなどと思う前に
「ここから呪われたりしないよなぁ……見逃すみたいなこと言ってたしなぁ」
ひたすら自分の身の危険に怯えるノボルなのだった。
「ほ、本当にあの運転手さんはどうなったんだ……」