「いらっしゃいませ、こんにちは!」

疲れた身体を引きずって、今日もいつもの店に入る。

駅の近くにある個人経営のファーストフード店だ。

特別美味いと思ったことはないが、駅から近いし何より安いので休日の昼には毎週通っている。

カウンターの前に立ち、レジにいるバイトの女の子にいつもと全く同じ注文をする。

「はい、注文は以上で宜しいでしょうか? ……はい! では少々お待ちくださいませ!」

反応のない私にも元気にはきはきと対応をする彼女の勤務態度には毎度のことながら感心させられる。

というか、この少女。

ほぼ毎週通っていて、ほぼ毎週レジに立っているのを見かけるので顔を覚えてしまったのだが……。

休んだりはしないのだろうか?

通い始めて二年近くになるが、休日に行って彼女を見かけなかった日はない。

遊び盛りの年頃だろうに。

何故そこまでして働いているのかは知らないが、その代わり収入は結構なものだろうな。

下手をすれば私の小遣いよりも多いかもしれない。

恥ずかしながら私は別居中の妻に毎月娘の養育費を送っているので、あまり余裕のある身ではないのだ。

しばらく会っていないが、娘と彼女は同じくらいの年頃だな。

会いたい気もするが、会ったところで彼女のように私に笑顔など向けてくれるだろうか。

仕事に感けて家庭を顧みなかった結果、妻から別居されてしまうような父に。

……しかし、このレジの子は営業スマイルとは言え本当に良い笑顔をするな。

「……お客様?」

「あ、ああ。すまないね」

気が付くとぼーっと彼女の顔を眺めてしまっていた。

注文したものを手にした彼女は戸惑った様子になってしまっている。

少々気まずい。

「ありがとう」

私はさっさと彼女から注文したものを受け取ると、礼を言って空いている席に向かった。

「はい、ありがとうございます!」

おざなりな私の礼にも律儀に反応した彼女は実に気持ちよくお辞儀をした。

うむ、良い子だ。

私がこの店に通っているのはこの子のせいかもしれないな。

胸の名札があるので名前も覚えてしまった。

確か白木とか言ったか。

あの子目当てに通っている客は私だけはあるまい。

顔立ちもなかなか可愛らしい。

美少女ではないが、良い嫁さんになりそうなタイプだ。

かといって私もいい年をした中年の男。

今さら女子高生などには興味はもてない。

窓際の席に陣取って、もそもそと食事を始めた。

窓の外を歩く人々をぼんやりと眺めていると、たまに酷く空しくなる時がある。

家庭を守る為に仕事を頑張っているつもりだった。

それが何時の間にか、自分でも気付かないうちに仕事の方に夢中になってしまっていた。

たまの休みにも娘を遊びに連れていってやることもあまりできなかった。

残業して深夜に帰ることも多かった。

そこまで仕事が楽しかったわけではない。

ただ自分に余裕がなかっただけだ。

周りを省みることが出来なかったのだ。

がむしゃらに頑張って、頑張って、頑張って。

頑張り続けているうちに何のために頑張っているのかも忘れてしまっていた。

その結果として得たものは同期の中での出世頭という肩書き。

失ったものは家族。

まさに本末転倒というしかない。

私は窓ガラスに映る自分の顔を見て、自嘲気味に薄く笑う。

賑やかな店内の中で一人沈んだ気分に浸っていると、背後から突然大声が響き渡ってきた。

「妹さん! ヒカルはいるかい!?」

「またですか木下さん……。今日は兄さんは来てませんよ」

入ってくるなりレジに入っている白木嬢に叫ぶ木下と呼ばれる男。

何事かと店内にいる客の半分はざわめくが、私を含めた残りの半分は気にもしない。

そう、振り向くまでもない。

この店ではよくある光景の一つだ。

本当に男なのか疑わしいヒカルという名の白木嬢の兄が店に飛び込んできたかと思うと、続いて木下という男が現れる。

そして一騒ぎを起こして嵐のように去っていくのだ。

別に怪我人が出るわけでも、物が壊れるわけでもないので常連はみな慣れてしまっている。

「レポート手伝ったら頭を撫でてくれるっつー約束だったのに! あいつ逃げやがったんだよ!」

「知りませんよ! お店の中で大声出さないで下さいってば」

声を張り上げる木下氏にうんざりした様子で対応する白木嬢。

ちなみに他の店員はいつものように苦笑いをしながらこの騒ぎを眺めているだけだろう。

まぁ無理もない。

店に来た悪漢を5、6人まとめて道路に投げ込むような男だ。

その上で公衆の面前で、女顔とは言え男に向かって愛を叫ぶような男でもある。

何かと規格外な木下氏にまともに対応できるような店員はそうそういまい。

「くっそう! どこ言ったヒカルぅぅ!!」

「店の中で叫ぶんなら何か買ってからにして下さい。それなら迷惑なお客さんとして目を瞑りますから」

「あ、それならジュースでも買ってくかな。走り回ってたらノド乾いちまって」

ため息を混じりの白木嬢の言葉に急に落ち着いてしまう木下氏。

このテンションの起伏の激しさは聞いているだけで疲れるな。

早く食べてしまって店を出ることにするか。

私はセットの残りを飲み物で喉の奥に流し込むと、トレイを持って立ち上がる。

ゴミを片付けて店の出口に向かった。

まだ何やら木下氏と言葉を交わしていた白木嬢は店を出ようとする私の背中に声をかける。

「ありがとうございました! またお越し下さいませー!」

うむ。

あのやり取りの中でも他の客への気配りは忘れない。

まったくバイトにしておくには勿体無い人材だな。

私は白木嬢の接客に満足しつつ、店の扉に手を伸ばした。

しかし、私がノブを握る前にゆっくりと扉はこちら側に開いてきた。

このドアは自動ではないが、別に驚くことではない。

ただ単に外から他の客が入ってきただけのことだ。

入ってきた客は私に軽く会釈をして、店の中に入っていく。

私はその姿を何となく目で追った。

今の客。

小柄で、後ろ髪を縛っていて、少女にしか見えない今の客。

……白木嬢の兄だな。

「……あー! ヒカルじゃねーか!」

「ああ、木下!? 逃げ込んだ先に先回りされていたとわ!?」

木下氏の嬌声のような怒声のような大声が店に響く。

この場所からは見えないが、白木嬢が頭を抱えているであろうことは想像に難くない。

またこの後に一騒動起こるのは間違いないが、わざわざ見ていく気にはならなかった。

正直見飽きた、というのもある。

私は盛り上がってきた店を去り、家路につくことにした。











次の木曜日。

私は炎天下の中、会社へ向かうべく駅への道を歩いていた。

まったく木曜というものは憂鬱なものだ。

もうすぐ週末というわけでもないし、疲れもかなり溜まってくる曜日だと思う。

まぁこれは年のせいもあるだろうが。

それにしてもこの日差しは応える。

昨日、一人で酒を飲んでいた時に少々量が過ぎたのかもしれない。

額から流れる汗をハンカチで拭いながら足を進める。

……暑い。

というか熱い。

陽炎で景色が揺らいで見える。

暑さで少し溶けたアスファルトを踏む度に、靴が粘ついた音を立てている。

……。

頭がくらくらしてきた。

眩暈がする。

日射病……か、熱中病か?

どちらにせよ不味い。

どうも平衡感覚が失われてきているような……。

……。

何だか……アスファルトが……近づい……て……。

真っ黒いアスファルトが眼前に迫り。

そこで私の意識は途絶えた。











夢を見ていた。

娘がまだ小さい頃の夢だ。

そろそろ言葉が喋られるようになるかならないか、というくらいの頃。

あの頃は、家に帰ったらもう娘が何か喋られるようになっているんじゃあないかと思って。

早くパパと呼んで欲しくて。

仕事が終わったら飛ぶように帰ったもんだった。

そんな日々がしばらく続き、ようやくパパと呼んでもらえた時は娘を抱いて小躍りしたものだった。

この娘のために、もっともっと頑張ろうと思ったものだった。

隣で笑う嫁を、腕の中の娘を、自分の家族を守っていこう誓ったものだった。

……こんな日々もあった。

正に夢のような日々だった。

それが何時の頃からだろう。

仕事に感けてろくに家に帰らなくなったのは。

嫁や娘とまともに言葉を交わすことがなくなったのは。

……まったく昔は良かった。

そんな良かった日々のことを忘れて家族に逃げられるまで現状に気づけなかったとはお笑い草だ。

守りたかった家族に逃げられるとはな。

私は笑った。

夢の中で、涙を流しながら笑い続けた。

「――しっかりしてください……」

誰かの声が聞こえた。

気遣わしげな、優しい声だった。

私は夢の中で涙を流しながら、声がした方に顔を向けた。













「……あ、目が覚めたみたいですね」

目を開けると、見覚えのある顔が目の前にあった。

白木嬢だった。

手に濡らしたタオルを持っている。

気が付けば私の額の上にも同じ物が乗っていた。

少し首を巡らして辺りを見てみる。

いささか雑多に物が散らかっている薄暗い部屋。

そこのソファーに私は寝かされていた。

「びっくりしましたよ。ここに来る途中でおじさん倒れてるんですもん。死んじゃってるのかと思っちゃいました」

白木嬢はそう笑いながら額の上のタオルを取り替えてくれた。

「慌ててお店まで走って店長呼んできて、ここまで運んできたんです。……あ、ちなみにここはお店のバックルームですよ」

どうも倒れた私は彼女に助けられたようだった。

まだ重い頭を抑えながら上半身を起こす。

白木嬢はそんな私を見て、眉をしかめた。

「もう少し寝てたほうがよくないですか? ほら、お水飲んでください」

白木嬢の差し出してきたグラスを受け取り、一気に飲み干して私はようやく彼女に礼が言えるようになった。

……ありがとう、助かったよ。

そう言うと、彼女は微笑んだ。

「いえいえ。さっきも言いましたけど、ここまで運んだのは店長ですし」

そうか……と私は鷹揚に頷いた後、慌てて腕時計を見た。

会社に行かなくてはいけない時間を大幅に過ぎている。

連絡しないと。

私は携帯電話を取り出そうとズボンのポケットをまさぐった。

その様子を見て、状況を察したのか白木嬢は口を開いた。

「会社への連絡なら店長がしてくれましたよ。差出がましいことかとも思ったんですが……」

それに勝手に財布とかから連絡先調べてごめんなさい、と白木嬢は頭を下げる。

釣られて私も頭を下げた。

いやそこまでして貰ってかたじけない。

「困った時はお互い様ですって。それにしても人が倒れてるのに見向きもしないなんて現代人の心は荒んでますねっ」

テレビに出るような評論家じみたことを言いながら彼女は頬を膨らます。

まったく実に良い娘だ。

……よし。

身体の調子も戻ってきたようだし、そろそろ会社に向かうか。

その旨を伝えると、白木嬢は再び眉をしかめた。

「大丈夫ですか? 今日はもうご自宅でゆっくりしたほうが……。

会社の方も無理しないでくれ、と伝えてくださいとか言ってたらしいですよ」

そういうわけにもいかない、と私は首を振る。

今はそれなりに大事な企画を進めている途中なのだ。

部下たちは有能だが、判子を押せる私がいないと作業が進みにくいだろう。

しかしそんなことをこんな若い娘に言っても仕方が無いので、

家族を養うためには無理もしなければならんのだよ。

と言っておいた。

我ながら些か白々しい言葉だったが。

ところが予想外なことに白木嬢は私の言葉にうっとりとした様子で瞳を潤ませた。

……なんだ?

「……いいですねぇ、働くお父さんって。家族のために無理をする姿って格好いいですよー……」

世辞でも何でもなく、心の底から言っているようだった。

「たまにしか帰ってこなくても。帰りが夜遅くても。あまり言葉を交わせなくても。そんなことはどうでもいいんです!」

白木嬢はだんだんと声の調子が大きくなってきている。

「家族のためにどこかで頑張ってくれている! 無理もしてる! そんなお父さんって本当に格好いいんです!」

拳まで固めて強く言い切られてしまった。

ぽかんとしている私を尻目に白木嬢は今度はぶつぶつと呟きはじめた。

「……お酒ばっかり飲んでたり、ちょっとしたことで叩いてきたり。そんなのはお父さんなんかじゃ……」

よくは分からないがこの娘も相当苦労をしているようだ。

そして彼女は私の手を取り、両手で包み込むように握り締めてくると、熱い視線を送ってきた。

「……だからおじさんは頑張ってくださいね! 頑張ってるおじさんの姿は家族の方が絶対見てくれてますから!」

それはどうかな、と私は心の中で呟く。

私の頑張りなど、ただの空回りだったのではないか?

現に家族には逃げられてしまっている。

私は口元に小さな自嘲気味な笑いを浮かべる。

やがて白木嬢は我に帰ったのか、慌てて私の手を離した。

「す、すいません。何か一人で盛り上がっちゃって」

構わないよ、と言って私はソファーから降りて立ち上がって服の埃を軽く払う。

ソファーの前のテーブルに乗せられてあった鞄を手に取る。

世話になったね、と白木嬢に声をかけて部屋を出ようとする。

そんな私の背中に白木嬢は声をかけた。

「会社に行くんですか?」

ああ、そうだよ。

私が振り返って答えると、白木嬢は困ったような表情を浮かべた。

「せめて一回帰るのかと思ってご家族にも連絡しちゃったんですけど……」

……何だと?

まったく別居中だというのに……。

それで妻は何と?

私がそう尋ねると、白木嬢は笑顔で答えを返してきた。

「電話に出たのは娘さんでしたよ。場所を伝えたら、すぐに向かえに来るって。奥さんも一緒に来るそうです」

仲良いんですねぇ、と白木嬢は微笑む。

私は自分の耳を疑った。

何故だ?

嫁と娘は私をもう見限ったのではないのか?

それが私を向かえに来るだと?

……会ってくれる、のか?

「あ、それと伝言頼まれたんですけど」

一人悩む私に気付いていない白木嬢は言葉を続ける。

「奥さんは、逃げたら追いかけてくれないと困るじゃない。娘さんは、パパは我慢強すぎるのよ……だ、そうです」

……そう……だったのか?

私はまだ……見限られては……。

部屋のドアがノックされた。

ドアの向こうからだるそうな男の声が聞こえてきた。

「おーい。おっさんの奥さんと娘さんが迎えにきたぞー」

「噂をすれば何とやら、ですね」

戸惑った顔をしているであろう私の顔を覗き込んで木嬢は目を細めた。

私はふらふらとドアを開ける。

そこには、久しく顔を合わせていなかった嫁と娘が立っていた。

二人の目を見て、私は確信した。

今の今まで私は自分の家族はもう駄目だと思っていた。

しかし、この二人の目。

私のことを、夫だと父だと認めてくれている目だ。

私もきっと二人を家族と認めた目で見れていることだろう。

何とも面映い沈黙が私たちの間を漂う。

話したいことが多すぎて、何から話していいのか分からない。

そんな私たちを奇妙に思ったのか、白木嬢が「どうしたんですか?」と後ろから訊いてきた。

……話すならゆっくり話さないとな。

私は振り返ると、白木嬢に微笑んだ。

やっぱり会社は休むことにするよ。それから軽くここで食事していくことにする。

そう言うと、彼女は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに姿勢を正した。

「それならおじさんはお客様ですね」

そして私の見慣れた気持ちの良い笑顔を浮かべた。

「いらっしゃいませ、こんにちは!」




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