「と、いうわけで今日は校外学習、所謂遠足なわけで……」
椅子に深く腰掛け、窓の外を遠い目で見つめながらヒロミはぽつりと呟いた。
窓の外では街の景色が後ろに流れていっている。
ここは校外学習先の遊園地に向かうバスの中なのだ。
「何一人で呟いているんですの?」
隣に座っているカオルがお菓子をぱりぽり齧りながら尋ねた。
どことなくうきうきしている様子だ。
「バスの席はくじ引きで決められているわけで……」
「向こうに着いたらまずに何に乗ろうかしら? このスーサイドスクリューって凄いらしいですわよ」
カオルはがそごそパンフレットを広げながら、先ほどからしきりにヒロミに話しかけてきている。
パンフレットには所々赤ペンで丸が打たれている箇所があったり、皺が付いていたり。
カオルは相当今日の日を楽しみにしていたらしい。
「班の組み合わせまでくじ引きで決められているわけで……」
それに対してヒロミはつまらなさそうな顔をしている。
隣にカオルが座っているのが気に入らないようだ。
「もー。さっきから何をぶつぶつ言ってるんですの。せっかくの遊園地なんだからもっとはしゃぐべきですわ」
「そんなこと言われても。私あんまり遊園地とか慣れてないから苦手なのよ」
幼い頃、前の両親にはあまり遊びに連れて行ってもらったことがないヒロミ。
いまいちはしゃぎ方というものが掴めないのだった。
ふっと自嘲気味な笑顔を浮かべたヒロミの微妙な言葉にカオルはまるで気付かない。
「つまらない人ですわね。仕方ない、今日はワタクシが直々に遊び方というものを教えてさしあげますわ」
得意気に胸をそらすカオル。
ヒロミは眉をひそめながら答えた。
「遠慮しますわ」
「何でですの!」
ぷぅっと頬を膨らますカオルにヒロミは逆に問い返す。
「だってあなた私のこと嫌いなんじゃなかったの? 今日はやけにフレンドリーだけど」
「うっ!」
なぜか辛そうに胸を抑えるカオル。
そして急にしょんぼりして肩を落としてしまった。
「実はワタクシ、お友達少ないんですの……」
その言葉に急激に親近感が沸くヒロミ。
お坊ちゃま、お嬢さま学校なヒロミたちの通う高校には気の合うような友人はほとんどいないのだ。
マコがいるけど彼女はクラス違うし。
「わかった、わかったわ西園寺。今日は楽しみましょう」
「うぅ……。お金じゃ……お金じゃお友達は買えないんですのよー」
嫌なことを思い出したのか急に喚きだすカオルの頭をヒロミはよしよししてやるのだった。
というわけでやってきました遊園地。
バスから降りたヒロミとカオルはとりあえず、しおりを読んで班の他のメンバーを探すことに。
「えーと他のメンバーはっと……」
「あ、あそこに固まってますわよ」
しおり片手にバス降り場で辺りを見回すヒロミの袖をカオルは引っ張る。
カオルの指差す方へヒロミが顔を向けると、確かに班が決まったときに顔を会わせた娘たちがいた。
ヒロミたちに気付くと、ぱっと笑顔を向けてきた。
「あ、白木さんと西園寺さーん」
「こっちこっち」
手を振ってきてくれているその姿にほっとするヒカルとカオル。
クラス内で少々浮いている二人なので受け入れてもらえるか心配だったのか。
二人して小走りで娘たちに近寄ると、彼女たちは笑顔のまま言ってきた。
「先生もあんまり見回ってないみたいだから中に入ったら別行動しない?」
『へ?』
きょとんとなるヒロミとカオル。
「そうそう。せっかくだからいつものグループで回りたいよねー」
「私はカレと回るけど。えへへ」
ヒロミたちは置いてけぼりで盛り上がる娘たち。
『それじゃーねー』
散々きゃっきゃと盛り上がると、娘たちはそれぞれのグループへと散っていってしまった。
取り残されるヒロミとカオル。
しばし、無言。
カオルは遠い目をしながら空を仰いだ。
(これをキッカケにお友達を増やそうなんて甘っちょろい考えでしたわね……)
もっと器用に生きたいですわ、としみじみしていると、隣のヒロミが突然拳をぎゅっと握り締めた。
勢いよく空に向かって拳を突き上げる。
「――負けないもん!」
わざわざ口にしていることから察するにヒロミも結構ショックだったのかもしれない。
「その意気ですわ!」
カオルも自らを奮い立たせると鞄からパンフレットを取り出した。
ヒロミも上げた拳をそのまま遊園地に向かって突きつける。
「遊ぶわよ!」
「遊びますわよ!」
クラスにちょっぴり溶け込めない二人に火がついた瞬間だった。
それからのヒロミとカオルの遊びっぷりは見事なものだった。
とりあえずスーサイドスクリューに乗り込むと二人で最前列の席を確保。
安全基準ぎりぎりと言われている速度の中でも躊躇なく両手を上に上げる。
お食事の後では乗ってはいけないと言われている二十連ループでも鼻歌混じり。
神と邂逅できると言われている八十五度の急落下も嬌声を上げながらクリアー。
降り場に着いて、他のお客が放心してる中をヒロミとカオルは颯爽を降りていく。
「さ、程よくアドレナリンが出たところで次行きしょ次!」
「はいですわ! えっと次は……」
和気藹々と降り場の階段を下りていく彼女たちを係員は眩しそうな目で見送っていた。
彼は後に同僚に語る。
あんなに気持ちよくアトラクションを楽しんでいる客を初めて見たと。
そして語られた同僚もこう返した。
それは大げさだと。
まぁそんな感じで二人は次々と他のアトラクションもこなしていく。
カオルの作った最短ルートを通って効率よく進んでいけている。
全アトラクションの半分を楽しんだところで、やっと昼食時になった。
二人で芝生に腰を降ろして弁当をぱくついているとき、ヒロミはそういえば、と口を開いた。
「ここで兄さんがバイトしてるのよね。はしゃいでて忘れてたけど」
ついでに木下さんも、と付け加えるヒロミ。
「なんですって!?」
「ええ。確かここのお化け屋敷でお化けやってるって言ってたわ」
カオルは目を輝かせた。
「ぜ、是非行ってみたいですわ」
うずうずしているカオルをヒロミはまぁまぁとなだめる。
「気持ちは分かるけど今日は平日よ? 兄さんも大学行ってるってば」
「それもそうですわねー……」
少しがっかりした様子のカオル。
しばし二人とも特に何も喋らず黙々と弁当を食べていた。
ヒロミが食べ終わり、弁当箱を鞄に片付け、お茶を飲んでいると、カオルがまだそわそわしていることに気がついた。
先ほどからしきりにパンフレットを眺めては、お化け屋敷のある方角をちらちら見てい
る。
「行きたいの?」
ヒロミの問いにカオルはびくりと肩を震わす。
「いや、行ってもどうせヒカルさまはいないのですし……」
言いつつも視線はお化け屋敷の方を向いたままだ。
ヒロミはふっとため息を漏らす。
「わかった。わかったわよ。このお茶飲んだら行ってみましょ」
その言葉にぱっと明るい顔になるカオル。
「あなたがそこまで言うなら仕方ありませんわねー!」
「調子に乗らないっ」
何故か勝ち誇ったような顔をするカオルの頭を軽くはたくヒロミ。
「あいたっ・……もう、何であなたはそうすぐに人を叩くんですの……」
頭を擦りながらぼやくカオルにヒロミは飄々と答える。
「だって話が早いんだもの」
やって来るはお化け屋敷。
なかなか本格的な造りで、ぼろぼろになっていなければ本当に人が住めそうに見える屋敷だ。
ときおり、中から布を裂くような悲鳴が聞こえてくるのが生々しい。
何だか屋敷の周りだけ薄暗いような、空気が重たい印象さえ受ける。
「ここね。来るのは初めてだけど……」
屋敷の前に立ってヒロミは冷や汗を流しながら呟いた。
「何て恐ろしい場所なのかしら」
「まったくですわ……」
ぞくぞくする肩を両手で抱えながらカオルも同意する。
そして辺りを見渡して言った。
「というか他のお客たちはこの屋敷を明らかに避けて通ってますわよ」
言われてヒロミも辺りを見渡すと、他の客はこの屋敷の前を大きく避けて道を通っている。
小さな子供などは屋敷を見ただけで泣き出してしまっていた。
それほどまでに禍々しい空気を纏っているのである。
ヒロミは屋敷に視線を戻して内心思った。
(本当に怖いんだけど……。もう西園寺さんに他のとこに行こうって言おうかしら。……でも西園寺さんに弱み見せたくないし……)
カオルも思った。
(ヒカルさまのバイト先を見てみたかったけれど、これは予想以上ですわ……。でもワタクシが言い出したんですし……)
二人ともそのような内心の葛藤を抱えつつ、屋敷の前で立ち尽くしていると、屋敷の入り口から見知った顔が出てきた。
「あれ。ヒロミとカオルちゃんじゃないか。どしたの? こんな平日に」
死に装束を着たヒカルだった。
お客が来ずに退屈らしく、ぽきぱきと背中の骨を鳴らしながらヒロミたちの方へ歩いてきた。
「あ、そっか。今日は遠足だっけ。どーお? 楽しめてる? ここ結構面白いのあると思うけど」
「ヒカルさま! いらしてたのですのね。お陰様で楽しませていただいて……」
カオルも嬉々としてヒカルに寄っていくが、ヒロミは二人の会話を慌てて遮った。
「ちょっとちょっと兄さん」
「んん?」
「大学は? 何で平日の昼間からバイトなんかしてるのよ」
ヒカルは一瞬笑顔のまま固まり、次に顎に手を当てて何事か考え込み、そして後ろ頭に手をやって笑い出した。
「あはっはっはっは。……やぁカオルちゃん、最近どお?」
「え? ええ。ばっちぐーに調子良いですわ、ヒカルさま」
突然話を振られ、意味もなく反射的にガッツポーズなどしてしまうカオル。
「無理矢理話変えないでよ兄さん。……まったく」
呆れた様子のヒロミにひらひらと手を振りながらヒカルは呵呵と笑う。
「まぁいいじゃないか。それよりまだ時間あるならお化け屋敷寄ってかない? 安くしとくよ……とかは出来ないけど」
「是非! 喜んで……」
ヒカルに弱いカオルはほいほい付いていこうとする。
「ちょっと待って西園寺さん」
だが、そんなカオルをヒロミが制した。
「何ですの」
「ここ……入るの?」
言いながら屋敷の方を指差すヒロミ。
カオルは言われて改めて屋敷を見る。
何か暗い。何かギャーギャーとナゾの鳥の鳴き声が聞こえる。ときどき悲鳴が聞こえる。
ちょっと健全な女子高生の行くところではないように思われる雰囲気だ。
「……ヒカルさまが呼んでいますし」
入り口でおいでおいでしているヒカルに引き寄せられるように屋敷にふらふら歩いていくカオル。
「仕方ないわねー……」
ヒロミは屋敷をもう一度だけ眺めると嫌そうな顔をしながらカオルを追った。
お岩さんルックの受付のお姉さんにフリーチケットを見せて中に入る。
ヒカルはちょっと先に行ってスタンバイしてる、と言って奥へ消えてしまった。
二人は恐る恐る入り口の扉を開くと、中は真っ暗だった。
暗いというどころの騒ぎではない。
自分の伸ばした手すら見えないほどの暗闇なのだ。
「な、なんですの! この暗さは!」
「全然前が見えない……」
思わず手を繋ぎあってヒロミとカオルが二人しておたおたしていると、暗闇の向こうから人影が近づいてくるのが見えた。
自分の手すら見えないほどの暗さなのに何故人影が分かるのかと言うと、その人影がぼんやりと燐光を放っているからだ。
小柄な人影は滑るように歩き、二人の目の前に立つ。
よく見れば光っているのは白い死に装束だけで、顔などは薄く照らされているだけでよく分からない。
手には薄ぼんやりと光る提灯と、二本の杖を持っている。
「……でも兄さんでしょ?」
「ですわよねぇ」
「こらこら。雰囲気でないでしょーが」
ヒロミとカオルに指摘され、人影ことヒカルは頬を膨らませた。
「まったく雰囲気作りが大事なのに。……仕方ない。はい、これ使って歩いてね」
空気作りを諦めたヒカルは手にした杖を一本ずつ二人に渡す。
「この屋敷の中はここだけじゃなくてずっと真っ暗だから。これで足元確認しながら歩いてくれたまぃ。で、僕が案内係だから」
ついてきなさい、とヒカルはさっさと歩き出す。
身内がいるとなると恐怖感も薄れるモノ。
ヒカルにはついて行けば大丈夫だろうとヒロミは安心して歩き始めた。
しかし、カオルはそれでもまだ怖いようで、ヒロミの制服の裾を摘んでいる。
提灯を揺らしながら歩くヒカルの後を歩く二人。
相変わらず周りは真っ暗で、ヒカルから貰った杖を突きながらでないと転んでしまいそうだった。
ヒカルは案内を始めてからは職務に徹しているのか一言も喋らない。
それにつられてヒロミもカオルも何となく黙り込んだまま歩いている。
きしり……きしり……きしり……。
古ぼけた木の板で出来た床は彼女たちが足を運ぶ度に軋んで音を立てる。
暗闇の中を杖を突きながら、ヒカルの背中だけを頼りに歩く。
しかし歩いても歩いても何も出てこない。
確かに自分の手足さえ見えないほどの暗闇というのは、それだけで恐ろしい。
上下感覚さえも曖昧になってしまいそうな暗さだ。
もし転んでしまえば、杖無しでは立ち上がれなさそうだとヒロミは思った。
カオルの方はそんなことを考える余裕などなく、ひたすらヒカルの背中を見失わないように視線を固定させていた。
だが、慣れてしまえばそれだけだとも言える。
このままなら何とか耐えられるか、とヒロミとカオルが思ったその時。
いきなり首筋の辺りに生温い風が吹き付けてきた。
妙に湿り気を感じる上に何だか生臭い。
「う、うあぁぁぁぁ」
ぞくぞくとした気持ちの悪さを感じたヒロミは思わず変な声を出してしまった。
危うく杖まで取り落としそうになってしまう。
一方カオルの方は声こそ上げなかったが、瞳孔を見開くほど驚いて一瞬思考停止してしまった。
「気持ち悪かったわね……」
「……まったくですわ……」
ショックから立ち直った二人がふと前を見ると、ヒカルの背中が随分遠くなっていた。
騒いでいる間に無常にもさっさと進んでしまったらしい。
「ヒ、ヒカルさまー。置いていかないで欲しいですのー」
切羽詰った声を出してカオルは必死に歩みを速める。
転んでしまいそうなので走ることは出来ないのだ。
せっせと早歩きしているカオルにヒロミも頑張って続く。
こんなところで置いていかれたら一人で進む自身はヒロミにもない。
しかし二人がいくら早く歩いても、ヒカルとの差はなかなか縮まらない。
足音こそ聞こえてこないが、ヒカルは歩くペースを早めたようで提灯と着物の薄い光はどんどんと遠ざかっていってしまう。
このままでは置いていかれてしまう。
――がたんっ。
二人が焦りを感じ、さらに歩みを速めようとすると、今度はどこからともなく何かが倒れるような音が聞こえてきた。
怪訝な表情をする二人だったが、遠くから聞こえてきたものだったので然程気にせず先を急ぐことにする。
がたっ。がたたっ。
再び聞こえてくる物音。
今度はさっきよりも音が近い。
「……何の音かしらね」
「そんなことより早くヒカルさまに追いつかないとぉぉ」
耳を済ませてみようとするヒロミにカオルは目をぐるぐるさせながら答える。
もういっぱいいっぱいになってきてしまっている。
しかし音は止まずに響いてくる。
がたたっ。がたたたっ。がたんっ。
「まだだわ。さっきよりも近くから聞こえるような……」
とヒロミが呟きかけた瞬間。
がたたたたたたたたたたたたたたたたたた!!
何かが倒れるような音が四方八方から響いてきた。
「なななな何なんですの!?」
カオルは立ちすくんで悲鳴交じりの声を上げる。
「しかも何だか……」
ヒロミも立ち止まって辺りを見渡す。
やはり暗すぎて何も見えはしないが……。
がたっ! がたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!!
どんどんと音が迫ってくる。
しかも、いつの間にかヒカルの背中がもう見えなくなってしまっていた。
この屋敷の中のどこまで進んだのかも分からない。
「もうカンベンして欲しいですわよぅ!」
パニックになったカオルは半泣きの状態で走り出した。
「ま、待ちなさいって!」
慌ててヒロミも追いかけるが、杖を突きながらの小走りなのでなかなか追いつくことが出来ない。
そうこうしている間にカオルも闇の中に溶け込むように見えなくなってしまった。
がたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!!
狂ったように響いてくるこの音にも焦燥感を煽られて仕方がない。
「西園寺さーん!! 離れると危ないから合流しましょー!」
とりあえずその場からカオルを呼んでみる。
響いてくる異音を耐えながらしばし根気よく待つヒロミ。
だが、待てど暮らせど返事は返ってこない。
諦めてヒロミは慎重に杖で足元を確認しながら前へ進んでいく。
それにしても暗すぎて距離感がまるで分からない。
いったい入り口からどれくらい進んだのか。
焦りを感じながら歩いていくと、杖から妙な感触が伝わってきた。
何だか柔らかいモノ。
また嫌な仕掛けかと思ったヒロミは杖で慎重にそれを突付いて調べる。
べしべし叩いてみたりして調べてみた結果。
「……人?」
屈み込み、目を凝らして顔をよく見てみるとカオルだった。
見事に目を回して気を失っている。
(怖いのは分かるけどちょっと情けないんじゃないかしら……)
でも弱み握れたかも、とヒロミが内心少しだけ得した気分になった。
だが、弱みを握ったところで別に意味もないので、ヒロミはとりあえずカオルを起こそうと肩に揺らす。
少しの間、呼びかけながらそうしていると、カオルは割合すぐに気がついた。
ヒロミを見るなり、震えながら口を開いた。
「牙が……牙が」
「牙?」
何を言っているのかしら、と首を傾げるヒロミ。
そんな彼女の背後を指差しながらカオルは叫んだ。
「ま、また来ましたわ!」
「え?」
驚いたヒロミは慌てて後ろを振り向く。
暗闇の中に、二本の小振りだが鋭い牙だけが浮かび上がっていた。
白く鈍く輝く牙はヒロミの視線を感じたのか、にやりと笑った。
すると二本の牙以外にも鋭い歯の列がちらと見える。
(これは怖い……わ!)
恐れおののいたヒロミはカオルを急いで立ち上がらせ、牙から逃げようとがむしゃらに先に進もうとする。
ぐるる……。
しかし、牙は一度唸り声を上げると、音も立てずに滑るように虚空を移動し後を追ってきた。
「やだやだやだ……!」
余裕が無くなってきたヒロミはそれでも杖で足場の確認をしながら牙から逃れようと急ぐ。
ちなみにカオルはもう恐怖のあまり糸こんにゃくのようにくにゃくにゃになってしまっていて、ほとんどヒロミに引きずられる格好だ。
だが、牙は速かった。
素早くヒロミたちの前に周り込むと顎を大きく開かせ、突進してきた。
顎が大きく開かれても牙の中には舌も何も見えなかったのがまたヒロミたちの恐怖心を煽る。
「ひっ!」
思わ両手を目の前を出し、身を守ろうとするヒロミ。
牙はヒロミ自体は襲わずに、手に持っていた杖に喰らいつく。
喰らいつかれた杖は一瞬にして噛み砕かれてしまった。
「何なのココは! もう!」
嫌になってきたヒロミは泣きそうになりながらもカオルを引っ張り、牙から逃れようと走った。
牙はそんなヒロミたちを容赦なく追いかけてくる。
息を切らせながら暗闇の中を走り続けていると、急に何かぶつかってしまった。
「いたっ……!」
ぶつかったものを確かめようとヒロミが撫で回してみると、それはどうやら背の高いマネキンのようだった。
「何でマネキンなんか……」
「牙怖い牙怖い牙怖いですわぁぁ」
疑問に思ったヒロミだが、カオルもおかしくなってきているので構わず進む。
しかし、少し歩くとまたマネキンにぶつかってしまった。
避けて歩くとまたマネキン。
どうやらこの辺り中にマネキンが配置されているようだった。
「歩きにくい……」
ヒロミは手探りでマネキンを避けながらも前へ進むが、牙がもう追いついてきた。
マネキンの間を縫うように滑ってくる牙は、ヒロミたちと直線状に並ぶと跳びかかってきた。
「きゃあ!」
頭を抱えてしゃがみ込み、ヒロミは牙から身をかわす。
牙はヒロミの頭上を跳び越えて、マネキンの群れの中に突っ込む。
マネキンたちが連鎖して倒れる音が辺りに響く。
そして、その音に続いて何かをばりばりと噛み砕く音が聞こえてきた。
ヒロミが目をやると、虚空にマネキンの首だけが浮いていた。
その首筋に牙が喰らいついており、ごりごりと少しずつ砕いていっている。
マネキンが妙にリアルなだけに実に生々しかった。
半分程砕いたところで牙はマネキンの頭を吐き捨てると、じりじりとヒロミたちに近づいてくる。
もうヒロミは腰が抜けてしまって逃げることが出来なかった。
カオルの方は牙に飛び掛かられた時点でまた気を失ってしまっている。
「……来ないで」
抜けた腰で懸命に離れようヒロミだが、牙は容赦なく距離を詰めてくる。
牙はこちらの恐怖心を煽るようにふらふらと左右に揺れている。
これ以上は耐えられない。
ヒロミは頭が真っ白になり、悲鳴を上げるべく肺いっぱいに空気を吸って……。
……力いっぱい吐き出そうとしたところで、急に辺りが明るくなった。
「……!?」
久々の明かりに目が眩むヒロミ。
そしてアナウンスが流れてくる。
『暗闇の屋敷、お楽しみ頂けたでしょうか? お帰りのお客様はスタッフが出口までご案内しますので、
どうぞお気軽にお声をお掛け下さい』
「ふいー……。お疲れお疲れお疲れたっと」
ヒロミの目の前に立っているのはヒカル。
白い死に装束ではなく、黒いローブのようなものを頭からすっぽりと被っている。
顔は黒くペイントされていて、口には蛍光塗料のようなものが塗られた入れ牙? がはまっている。
さっきからずっと追いかけてきていたのはヒカルだったようだ。
懐からタオルを取り出し顔を拭きながらヒロミに大して心配そうでもない様子で声をかけてきた。
「やっぱ腰抜けた? 大丈夫?」
ヒロミは何とも言えずその場にへたり込んだままだ。
そんなヒロミを気にせずヒカルは気絶しているカオルの頬をぺちぺちと叩き、呼びかける。
「カオルちゃーん。終わったから起きよー」
しかしカオルはうなされるだけで起きる様子はない。
やれやれ、とヒカルは肩をすくめると懐から今度は無線を取り出した。
「担架お願いしまーす。……またか、って言われてましても。……はい、はい。分かりましたって。
じゃあ、そういうことで。……はい、はーい切ります」
会話を終わらせるとヒカルは苦笑しながらヒロミに話しかけてきた。
「ここね。こんなにスタッフ一同頑張ってるというのになかなかお客さんが寄ってこなくてねぇ」
しみじみと語るヒカル。
「だから今日は久々に仕事できて充実したよ、うん」
「そう……」
ようやく抜けた腰に力が入るようになってきたヒロミはスカートの埃を払いながら立ち上がる。
「でも私はもう二度と来たくわね」
はたとヒカルの目を見つめ、ヒロミは断言する。
とっても真剣な口調で言われてしまったヒカルは狼狽した。
「そ、そんな……! こんなに怖いお化け屋敷はそうはないとゆーのに!?」
「怖すぎるの!! 冗談抜きで今夜トイレ行けないわよっ」
何だか腹が立ってきたヒロミはヒカルに詰め寄る。
指でヒカルの牙をぐいぐい押してやりながらまくし立てる。
「大体あんな屋敷を喜ぶお客なんかいるの? スリル味わうっていうかトラウマものよ」
うっ、と言葉に詰まるヒカル。
「か、感想なら色々と貰ったりするよ」
「どんな!」
「……『二度と来るか!』『暗所恐怖症になった』『牙の幻覚が見えるので医者に通ってる』」
「それは苦情っていうの!」
むむむ、と苦しげな表情をするヒカル。
と、その周りのスタッフの皆さん。
実は自覚はあったのかもしれない。
「ぼくは……ぼくたちは間違えていたというのか……?」
懊悩するヒカル。
と、その周りのスタッフの皆さん。
「木下のバイトしてるヤラレナイザーチームに負けたくないばかりに……やりすぎたのか?」
自分自身に問うように呟くヒカル。
周りのスタッフも皆さんも何事か呟いている。
ちなみに木下の所属するヤラレナイザーチームは、主にヒーローショーを担当している。
端的に紹介すると、その場が盛り上がるならステージの爆破もためらわない集団である。
「同じ遊園地内で張り合ってどうするのよ……」
呆れるヒロミ。
「いやいや。素晴らしいお化け屋敷でしたわ。堪能させて頂きました」
「いきなり起きて適当言わないっ」
いつの間にか目を覚ましていたカオルはヒカルにお世辞を言っている。
「そう? お世辞でも嬉しいよ。……奢るからもう一回やってく?」
ちょっとだけ励まされたヒカルはカオルを誘ってみたりする。
もちろんカオルは青い顔をして首を横に振ったが。
ヒロミはそんなカオルの手を引いてさっさと出口に向かうことにした。
「それじゃあ。私たちもう行くから。心臓弱そうな人にだけは気をつけるのよ、兄さん」
「大丈夫! 一回やって救急車の呼び方は覚えたから」
「ヒカルさまー。どうかお元気でー」
出口を抜けると、二人はふらふらと屋敷から離れ、最寄のベンチにへたれ込んだ。
想いっきり脱力しながらため息を吐くヒロミ。
カオルはそんなヒロミにもたれ掛かってぐったりとしている。
ヒロミはそれに対して文句を言う気力もなく呟いた。
「どっと疲れたわー……」
「まったくですわー……」
カオルも虚ろな目をしながら同意する。
――どぉぉぉん。
遠くの方から爆発音が聞こえてきた。
またゴンゾウがショーで怪人役の人を爆破したのだろう。
ヒロミは遠い目をしながらカオルに言った。
「まったく素敵な遊園地ねぇ」
「ノーコメントでお願いしますわ」
ヒカルが働いている手前、文句は言いたくないカオルだったが、視線を逸らしてため息を吐くのであった。