学校に遅刻しそうだった。
信号を無視したら目の前に、どえらい大きなトラックが迫ってきた。
もう駄目だと思って目を瞑った。
凄い衝撃があったような気がした。
絶対死んだと思った。
でも痛くなかった。
恐る恐る目を空けてみた。
トラックも何もなかった。
みんな普通に歩いていた。
さっきのは気のせいだったかと胸を撫で下ろした。
「何安心してんのよ」
びっくりした。
振り返ると自分と同じぐらいの年頃の女の子がいた。
少し離れた所、交差点を挟んだ向こう側に。
何だか全体的に身体が透けていて後ろの風景が薄っすら見える。
それに足がなかった。
見るからに幽霊だ。
「感心しない感心しない。ってかね、あんたも死んでるから」
言われてみて自分の手を見た足を見た。
手は透けているし足はなかった。
女の子の顔を見た。
「いや私にそんな顔されても。トラックに撥ねられてたじゃない。あれは死ぬわよ、うん」
もうちょっと近くで話したいと思った。
動けなかった。
「あ、やっぱり。あんたも自縛霊ね」
どうしても動けなかった。
「ムキになってもムダムダ。あたしもここで逝っちゃったんだけど自縛ってるからヒマでヒマで」
がっくりと肩を落とした。
「落ち込むのに飽きたら話し相手になってね?」
三ヶ月が経った。
慣れとは恐ろしい。
「あはははっ。で、それで? どうなったの?」
意外と早く立ち直れてしまった。
「そ、そーなるわけ? あははは。あはははは!」
毎日毎日女の子と。
「はー。くるしー」
くだらないことを喋って一日を過ごしている。
慣れてしまえば結構優雅な生活かもしれない。
動けないのは確かに辛いが、話し相手がいるならやっていけそうだ。
と、いうことを女の子に伝えてみた。
「そうね。私もあんたがいるならやってけそう。あんたが来るまではホント辛かったわよー」
それこそ死ぬかと思うくらい、と女の子は言う。
もう死んでるくせに何を言うかと思った。
「もう正直言ってあんた無しの生活はもう考えられないわ。ずっと寂しかったから」
女の子があんまり真剣な顔で言うのでちょっと照れくさくなった。
「それにしても、ちょっと贅沢を言うなら……」
女の子は言いながら手を伸ばした。
「どうせなら触れ合えるくらいの距離なら良かったのに」
釣られて手を伸ばしてみた。
もちろん届かない。
交差点を挟んだ二人の距離。
少し歩けば触れ合える距離だけど、この距離を埋めることはできない。
ほんの少しだけ悲しそうな顔をする女の子。
「でもいいわ。あんたが居てくれるならそれだけで……」
女の子はこちらに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁いた。
何だか女の子から元気がなくなったように見えた。
励ましてやりたくなった。
なので軽い口調で言ってみた。
そのうち根性で無理矢理動いてそっち行ってやる、と。
女の子はきょとんとした顔になった。
次の瞬間、爆笑した。
「自縛霊のくせに何言ってんのよ! ホントにもう、馬鹿なんだから」
馬鹿にされてしまった。
でも女の子が元気になったようでよかったよかった。
馬鹿よばわりされたついでに、もう一つ馬鹿話をしてやろうと口を開きかけたそのとき。
なぜか急に声がでなくなった。
そしてどこからともなく声が聞こえてくる。
懐かしい、慣れ親しんだ声が。
それと同時に今まで感覚のなかった身体中に痛みが走った。
痛い。
痛い。
凄く痛かった。
耐え切れずに膝をついた。
交差点の向こうから女の子が悲鳴交じりに声をかけてきた。
「どうしたの急に!? ねぇ! 大丈夫!?」
その声がだんだん遠くなる。
道路に手をついた手がどんどん薄くなっていく。
「何で!? どうして!? 消えないでよ! 置いていかないでよ!」
力を振り絞って顔をあげた。
泣きながら、必死に声を張り上げている女の子の姿。
彼女の姿もどんどんと見えなくなっていく。
その女の子に向かって届かない手を伸ばし……。
道路に膝を抱えて座り込んでいた。
何で男の子が消えてしまったのかは分からない。
成仏したのかもしれない、それならそれで喜ばしいことだ。
しかし、だが。
置いていかれた、という気持ちは非常に強かった。
寂しかった。
とても寂しかった。
男の子に会うまでは、一人でいても我慢できたのに。
寂しくても耐えられたのに。
泣いた。
交差点の隅で、一人で声を上げて泣いた。
人々は大勢行きかうけれど、姿が見える人は誰もいない。
それでも泣き続けた。
一ヶ月が経った。
信号機を背に力無く座り込んでいた。
もう泣きつかれてしまった。
立ち上がる気力もない。
何だか頭もぼんやりしてきた。
心なしか身体の輪郭も曖昧になってきたような気がする。
このまま消えてしまえればいいと思った。
そうしたらきっと楽になれるのに。
自暴自棄な気分になったので、道路に仰向けになって寝転がる。
半透明な自分の身体を、たくさんの人たちが踏みつけていく。
もちろん幽霊なので、すり抜けていくだけなのだけれど。
このまま、どんどん踏みつけられて。
このまま、コンクリートに溶けていけたらいいのに。
虚ろな瞳で空を眺めていた。
「いい加減に目を覚ませよ」
驚いて跳ね起きた。
今、男の子の声が聞こえた気がする。
慌てて男の子がいつも立っていた場所に視線を向ける。
だが、そこにはやはり男の子の姿はなかった。
気のせいか、とため息をつく。
「いつまで寝てるんだって」
また聞こえた。
間違いない、あの男の子の声だ。
しかし一体どこにいるのだろう。
必死に辺りを見渡し、男の子の姿を捜した。
男の子の名前を叫んだ。
「ここにいるよ」
どこ!
「ここで待ってるんだって」
どこなの!?
「ここだよ」
ふっと身体が浮くような感覚に包まれた。
目を開けると、目の前には一面の真っ白な天井。
「よう、目が覚めたか」
懐かしい声。
驚いて声のする方へ顔を向けようとするが、うまく身体が動かない。
「あぁ、ムリすんなって。まだ意識戻ったばっかりなんだから」
言われて自分の状態に気がついた。
点滴の管が何本か繋がれていて、ベットに寝かされていたのだった。
「それにしても探すのには苦労したよ」
枕元でしみじみ喋っている声の方へ、今度はゆっくりと首を動かす。
あの男の子だった。
車椅子に乗っていて、頭には包帯も巻いてあるし、眼帯で片目が塞がっている。
だけど、顔には満面の笑みを浮かべていた。
嬉しそうに説明してくる。
交差点に居た時の自分たちは死霊ではなく生霊だったこと。
自分は先月辺りに意識が戻り、気がついたら病室で寝ていたこと。
女の子もきっとどこかで生きてるはずだと、交通事故の記録などからここを探し当てたこと。
ずっとここに通い詰めて、女の子に呼びかけ続けていたこと。
その説明を聞いている間、女の子はまた泣いてしまうところだった。
嬉しかった。
もう会えないと思っていたから。
ずっとあのまま一人ぼっちで居なきゃいけないと思っていたから。
説明し終わった男の子は満足そうに頷く。
「よし、それじゃお前さんのご両親呼んでこなきゃ。まだ目が覚めたこと知らないし」
車椅子を動かし、部屋を出ようとする男の子を引き止めた。
「ん? 何だよ」
何で自分を探してくれたのか、と聞いてみる。
男の子だって見るからにまだ完治していないくせに。
何故そこまで無理をして。
男の子は照れくさそうな顔をしながらこちらに顔だけを向けて、言った。
「言ったじゃないか。そのうち根性でそっちに行ってやるって」
そして、男の子はそのまま病室から出て行った。
また、少しだけ泣いた。
でも、頬を流れる涙は何だか暖かかった。
一年後。
あの交差点には相変わらず多くを人たちが行きかっている。
交差点の端に男の子が立っていた。
その向い側の端に女の子が立っていた。
信号が青になる。
男の子はにこにこしながら歩き出す。
女の子も嬉しそうに歩き始める。
二人とも、今すぐ走り出したい衝動を抑えているような顔をしていた。
交差点の真ん中で、男の子は立ち止まる。
女の子はその男の子の目の前で立ち止まる。
そして男の子に向かって手を差し伸べた。
男の子は微笑みながらその手を取った。
二人はゆっくりと手を繋ぎ合って。
そのまま並んで歩き始めた。