「今週は忙しくてお見舞いに来るのが遅れちゃったわ。ごめんなさいね」
私はベットに寝ている夫に声をかけた。
夫に反応はない。
いつものことなので私は気にせず枕元の花瓶の水を取り替える。
それが終わるとベットの脇に椅子を寄せ、私は腰掛けた。
掛け布団から夫の左手を出して両手で包み込む。
これが夫と私のいつもの姿勢だ。
夫の体温を味わいながら、私は今週の出来事を話し始めた。
夫は相槌も打たないが、これもいつものことだ。
消毒液の匂いで満ちた病室に、私の話し声だけが響いていた。
夫は二年年に脳死状態になった。
私には良くわからなかったが植物人間状態とは違ってもう意識が戻ることはないと医者には言われた。
原因は車に撥ねられた時に強く頭を打ったこと。
道にとび出た子供を助けようとしたためだ。
正義感の強かった夫らしい、笑ってしまうほどありきたりな良い話だ。
新聞にも美談として掲載された。
新婚だったので当時はひどく悲しんだものだった。
半年は泣いて過ごしていた。
今はすっかり落ち着いたので週に一度、仕事の休日にこうして夫の病室を訪れているのだ。
「・・・というわけで最近はちょっと大きな仕事も任せてもらえるようになったのよ」
一週間の出来事をこうやって夫に話すのも一年以上続いている習慣になっている。
意味がないのは分かってる。
でも、こういうことをせずにはいられないのだ。
「義姉さん、また来てくれたんですか」
突然後ろから声を掛けられて、私は少し驚いて振り向く。
そこには夫の弟が笑顔を浮かべて立っていた。
どうやら先ほどから居たらしいが、声を掛け難かったようだ。
「もう習慣になってるから。ここに来ると落ち着くのよね」
私は弟さんに椅子を勧める。
弟さんは軽く私に礼を言ってから椅子に腰掛けた。
しばらく近況などを報告しあう。
弟さんも結婚していて娘さんがいる。
もう三歳になったそうだ。
今度会わせて欲しいなどと話して笑いあっていると、ふと弟さんが急に真顔になった。
「義姉さん・・・。そろそろ兄貴の籍から抜けてもいいんじゃないですか」
まだ義姐さんは若いんだから、と弟さんは付け加えた。
「うん・・・」
私は曖昧に返事をして、視線をそらして夫の顔を見る。
「兄貴はもう死んでるんですよ・・・。寝ているだけに見えるけど、もうしばらくすれば心臓も
止まるらしいし」
「うん・・・わかってるよ?」
弟さんは私を見てため息を漏らした。
「兄貴も生きてた時によく言ってたじゃないですか。だらだら生かされるより、
すんなり死にたいって。・・・生命維持もそろそろ切るべきじゃないでしょうか。俺も辛いですし、
兄貴のドナーカードに従って臓器を全部提供するってのは嫌ですけど」
「でも・・・私は、ね・・・」
弟さんは私の顔をしばらく見つめていた。
私はその視線が少し辛くて黙って夫の顔を眺めていた。
ふっ、と弟さんが軽く笑った。
「まぁ・・・その辺は義姉さんに任せますよ。俺もなかなか踏ん切りがつきませんし。
・・・お金のことは気にしないでくださいね。俺だって兄貴の顔が見たくなることもありますから」
私はありがとう、と小さく呟いた。
何だか申し訳なくて顔を上げることは出来なかった。
弟さんは無言で少し夫の顔を眺めた後、ゆっくり立ち上がった。
「じゃあ俺はそろそろ失礼しますよ・・・。今度うちの嫁と娘も含めてお食事でもどうですか?」
是非、と私は顔を上げて笑った。
弟さんも夫に似て優しい人だと思う。
再び夫と二人になった。
私は夫の頬を撫でる。
確かにあなたはもう死んでいるのでしょう。
今ごろ天国で私を見て苦笑いでもしているのかもね。
でもいいの。
あなたはあなたのお墓なの。
ぴん、と夫の鼻を軽く指で弾いてやる。
「・・・いいじゃない。あなたの傍に、いさせてよ」