イガラシは酷く気分が悪かった。

つい先ほど彼は非常に嫌な光景を見てしまい、吐き気すら感じるほど辛い想いをしていた。

人気の少ない放課後の教室の中で、クラスメートの男子と女子が唇を重ねている光景。

夕日に染まる教室。

林檎のように真っ赤に頬を染めた女子生徒。

それを頼もしげかつ、優しげに抱きしめている男子生徒。

客観的に見ればそれはもうロマンティックな様子だった。

それだけに、イガラシは辛かった。

彼は、片割れの女子に片思いをしていたからである。

思い出したくもないのに、嫌でもさっき目にしてしまった光景が頭にちらつく。

気分が、悪い。

イガラシは痛む胸を抑えながら、重い足を引きずって家路についた。









それから一週間。

イガラシはまだ気分が悪かったが、何とか学校に通っていた。

誰とも会話をする気がせず、今日も暗い顔で席に着く。

教室の中で片思いしていた彼女の笑い声が耳に入ってくるのを耐える。

今のイガラシには、彼女の姿を目にするだけでも辛い。

そんな彼に、近づく人影があった。

クラスメートのサトーである。

「ねぇ、イガラシくん。放課後に時間あったらちょっと付き合ってくれない?」

珍しいな、とイガラシは思った。

このサトーという人物は、クラスの中でも半端な地位にいる者だからだ。

サトーは自分から誰かに話し掛けることはあまりない。

しかし、いざ話し掛けられればそれなりに面白おかしい返答をするので根暗扱いはされていない。

クラスから浮いてはいないが、深く関わっているわけでもないというサトー。

そんなサトーが放課後に誰かを誘うというのは稀有なことなのである。

しかも今の自分は明らかに落ち込んでおり、他のクラスメートも腫れ物に触れるような扱いをしていたので特にだ。

正直、誰とも話したくない気分のイガラシであったが、気晴らしになるかもしれないとも思った。

「……ああ、いいぜ」

イガラシの喉から出た声は暗く重いものだった。

「じゃあ、放課後に……。そうだね、図書室にでも来てくれる?」

サトーは少しだけ声を震わせていた。









放課後になった。

相変わらず重い足を無理矢理動かして、図書室に入る。

掃除当番だったので少し遅くなっていた。

さてサトーはどこか、と首を廻らすと少し奥の方にいた。

落ち着きのない様子でうろうろと同じ所を歩き回っている。

「遅くなった」

イガラシが声をかけると、サトーは一瞬身体を震わせた。

顔を上げてイガラシを見たサトーは、ほっとして安堵した様子だ。

「俺に何の用なんだよ」

不機嫌な声。

そんな声しか出せない自分自身にイガラシは苛立つ。

かなり渋い表情を浮かべているイガラシに怯えた様子を見せつつも、サトーは口を開いた。

「ここ最近、ずっと辛そうだけど……何かあった?」

落ち着きなく視線をさ迷わせながらサトーは続ける。

「よ、良かったら話してくれない? ほら、人に愚痴るだけでも楽になるっていうし」

「失恋したんだよ」

吐き捨てるようにイガラシは言った。

「……え?」

いきなり返事が返ってくるとは思わなかったのか、サトーは戸惑っている。

「ずっと片思いだったコがいたんだけどな。そのコがキスしてる現場を見ちまったんだよ」

言っている間に憂鬱になってきたイガラシは、近くに本棚に持たれかかる。

「やってらんないよ。せめてしっかりフラレたかった」

そのまま本棚に背を預けたまま、ずるずると床に腰を落としていく。

「今告白したって困らせるだけだしな」

やってらんないよ、と口の中で繰り返しながら俯くイガラシ。

「それは……その何ていうか」

サトーはイガラシを何とか慰めたいようであったが、言葉が浮かばないらしい。

座り込んだイガラシの前で、ただおろおろとしているだけだ。

「大体何でアイツなんだよ。あのコと俺は同じ委員会でずっと一緒で。
よく話してて冗談も言い合える仲だったのに。アイツなんか最近あのコに目をつけて口説いてだだけじゃないか。
……なんでそんなヤツとくっ付いちまうんだよ。何で俺じゃ駄目なんだよ」

ここまでイガラシは言うつもりはなかったのだが、一度口にしてしまうと止まらなかった。

見苦しいと自覚しつつも、止まらない。

恨み言と愚痴を散々に吐き出す。

顎が疲れるほど喋り、少し落ち着いたイガラシ。

床に落としていた視線を上げると、サトーも床に座り込んでいた。

先ほどよりはサトー落ち着いており、眉に皺を寄せて真剣な顔をしている。

「悪いな、サトー。うざい話、訊かせちまって」

「……イガラシくんは何も悪くないけど、足りないものがあったんだと思う」

黙って話を訊いていたサトーは、恐る恐るといった様子で口を開いた。









「……何だって?」

普段から受動的なサトーのことだから、この辺りで話が終わると思っていたイガラシは眉をしかめる。

「イガラシくんは明るいし、目立たないわけじゃない。人当たりもいい」

つらつらと自分の長所を並べられて戸惑うイガラシ。

「でも、好きになってもらうにはそれだけじゃ足りないんだと思う。それだけじゃ友達止まりなんだよ、きっと」

友達止まり、という単語にイガラシはかちんと来た。

「何だよ、俺に何が足りなかったってんだよ。顔か?」

睨みつけてくるイガラシに怯えながらも、サトーは静かに首を横に振る。

「ううん。そんなのじゃない。イガラシくんに足りないのは勇気だと思う」

「勇気、だと?」

「うん。勇気」

サトーは唇を舐めて湿らす。

「何ていうかな。人生は舞台みたいものだと思うんだ。その上で、みんなうろちょろしてるんだと思う。
それでね。舞台を照らすスポットライトは、自分の方を向いてないんだよ。明後日の方を照らしてる。
自分がなりたい役があるなら、そのスポットライトに照らされに行かなきゃいけないんだ」

急に始まった妙なたとえ話。

しかし、イガラシはサトーの言いたいことが薄々わかり始めてきていた。

「イガラシくんはそのコの彼氏になりたかったんでしょう? そのために何か努力してた?」

その問いかけにイガラシはすぐには返事ができなかった。

「うろちょろしてるだけじゃ駄目なんだ。明るい所に行かなきゃ駄目なんだ。

照らされて、客席から良く見える目立つ場所に行って、そこで失敗して笑われる覚悟を持たなきゃ駄目なんだ」

切々とサトーは語り続ける。

「薄暗い所で、ふらふらしてるだけじゃ……。好きな人の人生で、役は貰えない。その他大勢で終わっちゃう」

「わかったようなことを言いやがって」

話が途切れるのを待って、イガラシは憎々しげにサトーを睨む。

その視線に耐えられないサトーは哀しそうに目を逸らす。

「……俺だってわかってたんだよ。それくらい」

罪悪感に耐え切れず、八つ当たりも出来ずにイガラシはぼやく。

「でも怖かったんだよ。それに友達のままでもそれなりに幸せだったんだ、俺は」

もう座っていることすら辛くて、埃っぽい床に横になるイガラシ。

「……でも、それなりじゃあ、駄目なんだよなぁ」

それだけ言って、イガラシは泣いた。

失恋してから流した初めての涙だった。









声を殺して咽び泣くイガラシの肩に、サトーは静かに触れる。その掌の温かさにまた涙が溢れてくる。

イガラシはサトーの手を握り締めると、涙が流れるままに任せることにした。

手を握り締められて、少し顔を赤くしているサトーは小さな声で謝った。

「ごめんね。余計なことばっかり言って」

「……いや。何かすっきりした」

少し落ち着いてきたイガラシは、サトーの手を離してから、涙で汚れた顔を袖で拭って身を起こす。

何だかサトーの顔を見るのが照れ臭かったので、誤魔化すように笑ってみた。

「それにしてもサトーがこんな風に人に構ってくるようなヤツとは思わなかったぜ」

「ホ、ホントはこういうの苦手なんだよね」

イガラシに笑顔を向けられ、恥ずかしいのか顔が赤い。

「趣味は読書だし、騒ぐのもそんなに好みじゃないから一人でいるのが好きなんだ。ホントは」

「じゃあ何で俺にちょっかいかけてきたんだよ」

「……さっきの話だよ。少し勇気を出してみようかと思って」

「どういうことだ?」

「一人が好きなはずなんだけど……。たまにすっごく寂しくなる時があるんだ」

胸を抑えながらサトーは切ない表情を浮かべる。

「友達と自信を持って呼べる人がいないし、好きな人もいないことがすっごく寂しくなる時がある」

その辺りはイガラシには良くわからない感情だった。

「それが俺に声をかけるのと何の関係が?」

「だ、だからさ……」

少しサトーはもじつく。

「イガラシくんのスポットライトに照らされに行こうと思ったんだ。何か落ち込んでたし、話を訊いて関わってみようと……さ」

顔を真っ赤にしているサトーが何だかおかして可愛くて。

思わずイガラシは吹き出してしまった。

「何だよソレ。下心アリかよ」

「そんなんじゃないってば! ……いや、そうかもしれないけど。やましい気持ちからじゃあ無いん……だけど、な」

見る見るうちに落ち込んでいくサトー。

やはり積極的に人と話すのがもともと苦手なのだろう。肩を落として小さくなってしまった。

その様子にイガラシはまた笑ってしまう。

「それに……クラスメートだし。ととと、友達なら、励ますのは当然でしょ?」

それだけ言うのにサトーは随分とどもっていた。耳まで赤くしている。

これがサトーなりの勇気なのだろう。

「いやいや。俺とお前は友達じゃないだろ」

それをずばりとイガラシは切り捨てる。

その言葉にサトーは一瞬泣きそうな顔になり、見るからに落ち込んでしまう。

そんな反応に、イガラシはサトーの肩を力いっぱい抱き寄せた。

「お前はいいヤツ! 俺たちはもう親友だ! な?」

顔を思いっきり近づけて、言い切るイガラシ。

「え? あ? う?」

このような触れ合いに慣れていないらしいサトーはひたすらどきまぎしている。

「何か腹減ったな。メシでも食いに行こうぜ」

言いながら無理矢理サトーを立たせるイガラシ。

元気よく図書室から出て行く二人を、図書委員が怪訝な顔で見送った。

「……こういうのも悪くないね」

イガラシに引きずられるように歩きながらもサトーは満更でもなさそうだ。

「俺も悪くない気分だよ。何なら今日はもう俺の家に泊まってくか?」

「う、うええ?」

人気の少なくなった校舎の中を、二人は笑い合いながら歩いていく。

紅い夕日に照らされて。

二人の影を一つに混ぜて。

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