とある森の中に、一匹のクモがいました。
そのクモは、毎日巣の手入れをしては虫を捕まえて食べていました。
同じことの繰り返しの日々ですが、別にクモに不満はありません。
違う縄張りに住む他のクモの事情は知りませんが、特に飢えに苦しむことのない生活を悪くないと思っていました。
ただ、クモに一つ胸に引っかかることがありました。
巣の手入れをして、張り替える度に思うこと。
朝露に濡れた自分の巣を見て思うこと。
月夜にきらめく糸を見て思うこと。
何だかもやもやするのです。
この気持ちを何というのか、クモにはよく分かりませんでした。
縄張り争いにならないために、他のクモとは離れて暮らしています。
他の虫はエサにしかすぎません。
会話をしないクモには、このもやもやが何なのか言葉で表すことが出来ませんでした。
ただ、淡々と痛んでもいない巣を張り替えては、もやもやを抱えているのでした。
そんなある日のこと。
今日もまた巣を張り替えていると、羽音が聞こえてきました。
このゆったりとした羽音はチョウチョのものです。
クモはそそくさと物陰に隠れました。
どうもチョウチョは二匹いるようで、楽しげに会話をしながら飛んでいます。
片方でいいから引っかからないか、とクモは期待します。
しかし残念ながら、チョウチョたちは網に気付いてしまったようでした。
あぶないあぶない。こんなところにクモの巣が。
うっかり引っかかるところだったね。
二匹のチョウチョはそんなことを言っています。
少々クモががっかりしていると、片方のチョウチョがこんなことを口にしました。
こんなことを思うのはよくないことかもしれないけれど、クモの巣ってキレイだ。
朝露に濡れて輝く糸や、お月さまに照らされる様子はステキだよ。
うっとりとクモの巣を見ながら話すチョウチョを、もう一匹のチョウチョはとがめます。
めったなことを言うんじゃないよ。アレにいったいどれだけの仲間が食べられたと思うんだい。
注意されたチョウチョは申しわけ無さそうに触覚を垂れます。
そうだね。その通りだ。
そして二匹のチョウチョはクモの巣を大きく避けながらどこかへ飛んでいきました。
残されたクモは、さきほどのチョウチョの言葉を噛み締めます。
そうだ。もやもやはこれだったんだ。
クモは物陰から這い出ると、自分の巣を見上げました。
キレイだ。
その言葉をクモは大切に胸に仕舞いこみ、膨らませていきました。
その日からクモの生活は変わりました。
もっとキレイに。もっともっと。
もやもやが何かわかったクモは、自分の巣を前よりも工夫して作るようになりました。
今までのように網を広げるだけでなく、形にこだわるようになりました。
キレイなモノの形を、自分で作りたくなったのです。
まん丸とした月のような巣を張りました。
上手にできましたが、朝露がたまり過ぎて破れてしまいます。
花の形をした巣を作りました。
ずいぶんキレイにできましたが、本物と間違えて寄ってきた虫たちのせいで形が崩れてしまいます。
お腹はいっぱいですが、壊されたのは残念です。
他にもいろいろな形の巣を作ります。
実に楽しい日々でしたが、クモに新しいもやもやができました。
作ったキレイなモノに、キレイだと言ってもらいたくなったのです。
花弁のような巣に捕まったトンボに訊ねます。
どうだ、キレイだろう。
トンボは首を振りながら叫びます。
助けてください。
つまらない、と思いながらクモはトンボをたいらげました。
三日月のような巣に捕まったハエに訊ねます。
どうだ、キレイだろう。
ハエは身を震わせて泣いています。
命だけは。
つまらない、と思いながらクモはハエをたいらげました。
どんなキレイな巣で捕まえた虫に訊ねても、キレイだと言ってくれません。
クモはだんだん楽しくなくなってきました。
こんなにキレイなのに、誰もわかってくれないとは。
それでもクモは訊ねます。
誰かわかってくれるだろう。
どうだ、キレイだろう。
葉っぱのような巣を作りました。
本物のようにキレイにできた自信作です。
今日こそは、と物陰に隠れてしばらくすると、巣が震えました。
エモノがかかったのです。
様子を見に行くと、あの時のチョウチョがもがいてしました。
キレイだ、という言葉を教えてくれたチョウチョです。
クモは喜びに身を震わせました。
こいつならわかってくれる。
喜び勇んで訊ねます。
どうだ、キレイだろう。
しかしチョウチョはそんなクモの気持ちなど知りません。
必死に羽を動かしながら、助けて、と暴れています。
話を訊け。どうだ、キレイだろう。
もう一度クモは訊ねますが、チョウチョは怯えて暴れるだけです。
クモはがっかりしました。
このチョウチョならキレイと言ってくれると思ったのに。
つまらないので食べてしまおうとチョウチョに近寄ります。
ますます暴れて羽を動かすチョウチョ。
その羽を見たクモは動きをぴたりと止めました。
キレイだ。
今まで捕まえたチョウチョはすぐに食べてしまっていたので、こんなにキレイだとは気付かないでいたのです。
クモはチョウチョから身を離すと、巣から離れてもっと高い木の上に昇っていきました。
クモはさきほど目に焼き付けたチョウチョの羽を思い出しながら、糸を張り巡らせ始めます。
太陽の光に照らされるような、とても周りから目立つ場所にです。
そんなところに巣を作っても虫が引っかかるわけがありません。
しかしクモは作らずにはいられませんでした。
それに、チョウチョの羽にはお日様の光がよく似合うと思ったのです。
取り残されたチョウチョが目を丸くして見上げている中で、クモは一心不乱に糸を織り上げます。
やがて出来上がった巣は、日中の光の下できらきらと輝いていました。
まるで大きなチョウチョが羽を広げているようでした。
捕まったチョウチョは思わず呟いてしまいます。
キレイだ。
そうだろう、そうだろう。
何時の間にか降りてきていたクモは満足そうに笑っています。
そしてチョウチョから糸を剥がしてやりました。
何だかお腹いっぱいになった。見逃してやる。
自由になったチョウチョは、すぐには逃げずにクモの顔を見つめます。
クモもまた捕まえようとはせずに、チョウチョの顔を見返します。
先に口を開いたのはチョウチョでした。
ありがとう、とは言わないよ。
クモはそれでも満足そうです。
ありがとう、と言わせてもらおう。
少しの間、見詰め合っていましたが、やがてクモは物陰へ、チョウチョは空へと去っていきました。