しとしと雨が降っている。
僕は廊下の窓から外を見て、少しだけ憂鬱になった。
傘持ってきてへん…。
クラスの奴らが言うには天気予報でも言ってたし、だいたい朝から曇ってたやないかと。
僕はちょっと迂闊なんかもしれへんわ…。
そんなことを考えながら歩いていると下駄箱に着いてしまった。さて、どうやって帰るか。
誰か友達捕まえて傘に入れてもらう。嫌やな、むさいわ。男同士で一つの傘なんて。
彼女に入れてもらう。…ダメっちゅうかムリやな。僕には彼女おらへんもん。だいたい中学生で
彼女持ちのヤツにろくなヤツはおらんのや。そうに決まっとる。
というわけで諦めて濡れて帰ることにした僕は雨の中に踏み出した。
九月の雨は少し肌寒いが耐えられないほどでもない。
下を向いて歩くと情けなさそうに見えるので、しっかりと前を向く。降り懸かる雨が前髪から
滴ってきて少々うっとおしい。
今度からちゃんと天気予報は見なアカンわ。
そう僕が固く胸に誓って校門を抜けたとき、後ろから声をかけられた。
「なんか普通に歩いてんなぁ。今雨降ってんねんで?気付いてる?」
振り返って顔を見てみるとクラスの女子だった。
「気付いとるよ。傘忘れてん」
「さっきから見とったけど、あんまりスムーズに外に出るから気付いてないんかと思ったわ」
見とったんかい。
「心の中ではな、いろいろ考えとってんで」
「あんた顔に出さんからわからんわぁ」
何が楽しいのか彼女はくすくすと笑う。気がついたら彼女と並んで歩いていた。僕は濡れ鼠やのに
彼女はしっかり傘をさしている。なんや僕がアホみたいやないか。
「ていうか…」
彼女の名前を言おうとしたが思い出せない。女子の名前って何となく覚えられへんねんな。
「…キミも帰りこっちなん?なんか一緒に帰ってるけど」
彼女は顔をしかめて言った。
「キミってなんやの、気持ち悪いなー。…あっ、ウチの名前忘れたんやろ!」
「うー…ごめん覚えてへんわ」
彼女は憤慨した様子だ。
「あんたソレはちょっとアカンで。うちら小学校一年からずっと同じクラスやってんで?
ちょっと冷たいんやない?」
「悪かった僕が悪かった。勘弁してな」
詰め寄ってくる彼女を何とかなだめる。
しかしそんな長い縁があったんか。全然気付かへんかった。
「まったく…覚えてへんかな?ちっちゃい頃はたまに遊んだりしたのに」
「覚えてへんわー。てかこの辺田舎やからずっと同じクラスて珍しないやん?しゃーないしゃーない」
彼女は付き合ってらんないと言わんばかりに大きく溜め息をついた。
「何がしゃーないんだか」
それからはしばらく二人とも黙って歩いた。少し気まずい。何か話しかけたいところだが
何しろ名前すら覚えてない相手、話題が思い付かない。
とか悩んでいると、くしゃみをしてしまった。さすがに冷えてきた。彼女は呆れて言った。
「雨降ってんのにトロトロ歩いてるからや。走ったらええのに」
「今さら走ってもな、もうびしょ濡れやし。それにな?走ったらこう…」
僕は両手で雨が正面から自分に降り懸かる仕草をした。
「そのぶん勢い良く雨かかるような気がするやん?だからもう歩いてんの」
「はー…。よぉわからん理屈やけど風邪ひくで?」
「そんなら傘ん中入れてくれたらええのに」
入れてもらう気なんかさらさらないが言うだけ言ってみる。彼女は意地悪に顔を歪めて少し
僕から距離をとった。
「あかーん、今のあんた中に入れたらウチの服が濡れてまうやん」
「言うてみただけや」
僕は憮然として言った。
「それに男子と相相傘なんかして噂たっても困るもん」
「噂なぁ…みんなそういう話題に飢えとるからなぁ」
「せやろ?」
二人してうんうん頷く。
「まぁとにかく風邪ひいても恨まんといてな」
「恨みませんがな」
と言って再びくしゃみ。
「…大丈夫?やっぱ入れたろか?」
「かまわんって。ほら、こんなに元気」
そう言って軽く跳び、着地と同時にくるりとターン。手拍子もオマケに付けてみる。
「なかなか鮮やかやーん」
「南のマイケルさんと呼んどくれ」
彼女は面白がって口笛を吹いた。そうこうしてるうちに分かれ道に差し掛かる。
「じゃ、うちはここでな」
ここでお別れらしい。
「んじゃバイバイ」
僕が軽く手を振ると、彼女も笑って答えてくれた
「ん、また明日なー」
彼女の後ろ姿を眺めていると背中に寒気が走った。僕は肩をさすりながら家に向かう。
しかし初めて…たぶん初めて話したけど感じよい子やったな。明日学校いったら名前調べてみよっと。
僕はちょっとだけ楽しい気分になって家路についたのだった。
次の日。
僕は風邪をひいてしまった。やっぱり濡れて帰るのはよくない。僕は熱にうなされながら、
天気予報ぐらいは見ようと心に誓った。
さらに次の日。
僕は下駄箱の前にいた。外はまた雨が降っている。
靴を履き変えているとき、後ろから肩を叩かれた。振り向いてみると一昨日の彼女だった。
「や」
片手を揚げて挨拶する。
「もう風邪はええんか?」
「おかげさまで。もうすっかり」
こうして気に掛けてくれる女子がいるってのは嬉しいもんやな。
「教室で言ってくれたらよかったのに」
「あほ、照れ臭いやん」
「そらそうだな」
気持ちはわかる。
「ところで何や、あんたまた傘持ってへんやん。懲りひんなー」
僕が口を開く前に彼女は続けて意外なことを言った。
「今日は傘ん中入れたるわ。また風邪ひかれても困るし」
彼女は風邪のことを気にしていてくれたようだ。僕は一瞬悩んだ。これはありがたい申し出だが…。
悩んでるうちに彼女はもう正面玄関の外に出て、雨の中から僕を呼ぶ。
「ほら、早よー」
雨の中の彼女は僕には少し…ほんの少し眩しく見えた。だから…。
「いや、僕今日は折りたたみ持ってんねん。ほら」
鞄の中から出してみせる。彼女は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに平淡な表情になって言った。
「…さよか、せやったらうちは先に帰るわ。バイバイ」
そして彼女は僕に背を向けて歩き出す。
「おう、ありがとな。バイバイ」
僕はその背中に向かって手を振ったが、彼女は無視して遠ざかる。そのまま行ってしまうのかと
思いきや、突然くるりと身体ごと振り向くと、声は出さずに口を大きく動かした。
何を言ってるのは簡単にわかった。
あーほ。
そして前を向き直すと小走りに駆けていってしまった。僕は折りたたみ傘を拡げながら
内心叫んでいた。
わかってる…わかってんねんで!?僕かて!?でも…照れ臭いんやもん、勘弁してや。
雨の中に踏み出しながら、幼い我が身を呪う僕だった。